雑然と。混交、リンク、伝播、ハイブリッド、情報化!
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江戸湾というのがある。今とは地形が違って、江戸という呼称がまだ古いものを指すのではなかったころ、今の東京湾あたしのことをそう呼んだというのは大体想像できるだろう。現在江戸湾という呼称を使うことはほとんどないだろうけど、それを僕はよく想像する。
***
僕は江戸に生まれたかったなと思うことがちょっとある。江戸前でたくさん魚がとれて新鮮でうまいのではないかと思うからなのだが、それには少し面倒なイメージが纏わり付く。それは例えば単に、おいしいものを食べたいからとか環境破壊を恨んでいるから、ということではない。そうではなくて、今現在の東京湾でとれる魚がおいしくないこと、たった今とれたてのはずの魚が水質の問題などで臭くて食べ辛いということが、あまりに不自然な現象として嘔吐的な気持ち悪さを呼びこんでしまうからだ。つまり自然があまりに自然の体をなしていないことが気持ち悪いのである。
しかし一方で姿かたちのそのままの自然を好きだと思うことは無い。密林や深海といった強く美しい自然をそのまま受け入れることはできない。荒々しさと脆さが美しく見えて神を想像させるときほど、一方で拒否感が増していく。それらとずっと触れ合っていたいとはどうしても思えない。知っているだけでいい、広大な自然というのは大体こんな風にあるのかなと未熟な想像力を働かせることさえできればいい。身近なところでいえば人体や、土地と血縁に「根付く」といったことにも拒否感は強く表れる。
いつしか悩みごとの全てはこの二つに還元される。僕はいったいなにを、どこでしたいのか。生命としての自分をどう扱えばいいのか。他人との会話、社会での生きかた、自己満足と自己犠牲、自分が持つ悩みの全てはいつしか「自然」と「不自然」の二つから力を与えられて、拮抗する。いやなことがあったら、それを「自然」的部分と「不自然」的部分にわけて考えてしまい、そのどちらにも抗えないでしまう。僕は生きてなにと戯れたいのかわからなくなってしまう。
近代的なビルや都市は嫌いではない。東京は好きである。整理されて立派なビルが立ち並ぶぶん、煩雑さと汚さを兼ね備えた影や路地裏が生まれてもいる。都庁の無骨さとといったらない。高いところが嫌いだからよほどの用事でもない限りのぼるつもりも無いが見た目の無骨さは大好きだ。少し薄暗いけれど安くてうまい大衆居酒屋に紛れてしまうのはほんとうに気持ちがいい。だから都市は好きである。歌舞伎町も。だけど海外ブランドのスーツを着たりスポーツカーに乗ったり流行りの時計を嵌めたりするのはどうしても好きになれない、「感性は二の次」とおざなりにされている気がするし想像力があまりに他人任せだからその不自然さはすごく強調されて見える。それを提供しようとする表参道ヒなんとかとかなんとかギヒルズとかもだからなのかな、好きになれない。
どこまでも続く青い海空(つまり沖縄)や霊験あらたかな山々(つまり紀州)も気兼ねして困る。感動しなさいといわれているように感じても、僕は人間で浅知恵のついた猿だからそんなところで裸で生きるわけにはいかないとなにかが言う。裸になって生きる心算でのびのびと暮らせということは、たぶん最初の5文字で聞くのをやめてしまう。どうせならハワイぐらいだらだらしているほうがよい。夜中に銃声が聞こえるのだとしても。
生きるということを本当にわかることはないのだ、という人もある。死というのは他人の死しか経験することができず、自分の死は経験することができないのだから、死と相対的な関係にある生を確実に経験するということはできないのだと。つまり死の反対の生も生の反対の死もやってくることは無いのだと。なのに生き死にする。そうした自然の摂理に巻き込まれるのに嫌悪する一方で、全てにメスを入れようとする最先端医療よ、出来るというな、遺伝子組み換えだとかクローンだとか可能であるといってくれるな、僕に教えるんじゃないと1/10000スケールの僕がいう。その小さな僕を僕はみたことがない。射精する。受精する。生まれる。泣く。笑う。大きくなる。病気をする。手をつなぐ。また病気をする。老いる。輪廻でなく断線されたそれ、むき出しの生を僕は時折受け付けなくなる。
僕は昔、仙人になりたい(みたいな生活をしたい)なあと思ったことがある。山深い場所で苔むした庵に住む。思考はなんとなくなされていればおっけーで仕事はきちんとする。でもそれは山に住みたいから山に住むのではない。ときおり山から里へと下りたいから山に住むのだ。そのぐらいのつもりしかないからきっと僕は山に住めない・・・
自然と不自然のあいだ。
自然物を触って切ってこねこねして火を操って食う。料理。または酒。手をかけて造ったもので気持ち良くなる。いい匂い。
賭け事。確率の神様と遊ぶ。せいぜい頭を使って考える。サイコロ。札。馬。牌。将棋も。盤面は宇宙。
古物。造ったものが古くなる。歴史。誰かが書いたもの。みんな知っている歴史、ほとんどの人が知らない歴史。または嘘と言える歴史。
陰翳。
運動。肉体をコントロールする。枠組みの中で最大限に自由に動く。サッカー。野球。枠がなければ自由は発揮されないのだと気づく瞬間。ゴールを知らないのに最大限に走ることは出来ない。距離によって走り方が違うからだ。だからそれが用意される。その自由のために鍛錬もなされる。
***
好きなものを想像することが難しくなったとき、嫌なものばかりが顔を出す。それが不自然と自然。だから僕はあいだを語ることが出来なければならない。語ることによってあいだは確かにあるのだと幻覚させる。決して線引きしてわけることのできない、かつ混ざり合うことのないなにか。その二つと二つのあいだがあることを想像できなければ、僕は面倒くさくなってしまうだろう。
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僕は江戸に生まれたかったなと思うことがちょっとある。江戸前でたくさん魚がとれて新鮮でうまいのではないかと思うからなのだが、それには少し面倒なイメージが纏わり付く。それは例えば単に、おいしいものを食べたいからとか環境破壊を恨んでいるから、ということではない。そうではなくて、今現在の東京湾でとれる魚がおいしくないこと、たった今とれたてのはずの魚が水質の問題などで臭くて食べ辛いということが、あまりに不自然な現象として嘔吐的な気持ち悪さを呼びこんでしまうからだ。つまり自然があまりに自然の体をなしていないことが気持ち悪いのである。
しかし一方で姿かたちのそのままの自然を好きだと思うことは無い。密林や深海といった強く美しい自然をそのまま受け入れることはできない。荒々しさと脆さが美しく見えて神を想像させるときほど、一方で拒否感が増していく。それらとずっと触れ合っていたいとはどうしても思えない。知っているだけでいい、広大な自然というのは大体こんな風にあるのかなと未熟な想像力を働かせることさえできればいい。身近なところでいえば人体や、土地と血縁に「根付く」といったことにも拒否感は強く表れる。
いつしか悩みごとの全てはこの二つに還元される。僕はいったいなにを、どこでしたいのか。生命としての自分をどう扱えばいいのか。他人との会話、社会での生きかた、自己満足と自己犠牲、自分が持つ悩みの全てはいつしか「自然」と「不自然」の二つから力を与えられて、拮抗する。いやなことがあったら、それを「自然」的部分と「不自然」的部分にわけて考えてしまい、そのどちらにも抗えないでしまう。僕は生きてなにと戯れたいのかわからなくなってしまう。
近代的なビルや都市は嫌いではない。東京は好きである。整理されて立派なビルが立ち並ぶぶん、煩雑さと汚さを兼ね備えた影や路地裏が生まれてもいる。都庁の無骨さとといったらない。高いところが嫌いだからよほどの用事でもない限りのぼるつもりも無いが見た目の無骨さは大好きだ。少し薄暗いけれど安くてうまい大衆居酒屋に紛れてしまうのはほんとうに気持ちがいい。だから都市は好きである。歌舞伎町も。だけど海外ブランドのスーツを着たりスポーツカーに乗ったり流行りの時計を嵌めたりするのはどうしても好きになれない、「感性は二の次」とおざなりにされている気がするし想像力があまりに他人任せだからその不自然さはすごく強調されて見える。それを提供しようとする表参道ヒなんとかとかなんとかギヒルズとかもだからなのかな、好きになれない。
どこまでも続く青い海空(つまり沖縄)や霊験あらたかな山々(つまり紀州)も気兼ねして困る。感動しなさいといわれているように感じても、僕は人間で浅知恵のついた猿だからそんなところで裸で生きるわけにはいかないとなにかが言う。裸になって生きる心算でのびのびと暮らせということは、たぶん最初の5文字で聞くのをやめてしまう。どうせならハワイぐらいだらだらしているほうがよい。夜中に銃声が聞こえるのだとしても。
生きるということを本当にわかることはないのだ、という人もある。死というのは他人の死しか経験することができず、自分の死は経験することができないのだから、死と相対的な関係にある生を確実に経験するということはできないのだと。つまり死の反対の生も生の反対の死もやってくることは無いのだと。なのに生き死にする。そうした自然の摂理に巻き込まれるのに嫌悪する一方で、全てにメスを入れようとする最先端医療よ、出来るというな、遺伝子組み換えだとかクローンだとか可能であるといってくれるな、僕に教えるんじゃないと1/10000スケールの僕がいう。その小さな僕を僕はみたことがない。射精する。受精する。生まれる。泣く。笑う。大きくなる。病気をする。手をつなぐ。また病気をする。老いる。輪廻でなく断線されたそれ、むき出しの生を僕は時折受け付けなくなる。
僕は昔、仙人になりたい(みたいな生活をしたい)なあと思ったことがある。山深い場所で苔むした庵に住む。思考はなんとなくなされていればおっけーで仕事はきちんとする。でもそれは山に住みたいから山に住むのではない。ときおり山から里へと下りたいから山に住むのだ。そのぐらいのつもりしかないからきっと僕は山に住めない・・・
自然と不自然のあいだ。
自然物を触って切ってこねこねして火を操って食う。料理。または酒。手をかけて造ったもので気持ち良くなる。いい匂い。
賭け事。確率の神様と遊ぶ。せいぜい頭を使って考える。サイコロ。札。馬。牌。将棋も。盤面は宇宙。
古物。造ったものが古くなる。歴史。誰かが書いたもの。みんな知っている歴史、ほとんどの人が知らない歴史。または嘘と言える歴史。
陰翳。
運動。肉体をコントロールする。枠組みの中で最大限に自由に動く。サッカー。野球。枠がなければ自由は発揮されないのだと気づく瞬間。ゴールを知らないのに最大限に走ることは出来ない。距離によって走り方が違うからだ。だからそれが用意される。その自由のために鍛錬もなされる。
***
好きなものを想像することが難しくなったとき、嫌なものばかりが顔を出す。それが不自然と自然。だから僕はあいだを語ることが出来なければならない。語ることによってあいだは確かにあるのだと幻覚させる。決して線引きしてわけることのできない、かつ混ざり合うことのないなにか。その二つと二つのあいだがあることを想像できなければ、僕は面倒くさくなってしまうだろう。
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大体のひとは今、どこかに「住んで」いるということができる。生活を彩る要素は多々あるけれど、それらは衣食住と関係して展開していることがほとんどだ。なかでも、住まいが変われば衣食もそれに連れて変わるので、住まいは重要である。干物が好きだから瀬戸内に引っ越しました、とか生活のなかでかんじきを履いてみたいから東北に越しました、とかいうひとはかなり珍しいだろう。他の理由と複合してその地を選ぶということはあっても。
人が住む場所を選べるということはどういうことだろうとということは、もっと考えられてもいいことだろうと思う。東京に一極集中する人口を見ると、せいぜい「都内近郊のどこに住むか」というぐらいがリアルなことで、○○県のどこそこに住みたいとか、特殊な事情がないとなかなか叶えられないものである。海外に住みたいというほうがまだ耳にする気はするけれど、沖縄だ国外に住むのは容易なことではない。
そうこう考えていくと、「京都に住みたい」というのはなかなか現実味がある。大学がたくさんあるので学生として京都に住まいを移すこともあるだろうし、規模の大きい都市だから仕事を探すことも全く無理ではない。名勝景勝の地も盛りだくさんだから好きな人にはたまらないだろう、といういい土地である。実は私も京都に住んで学生をやったことがあるのだけど、思い起こせばほかにも色んなところで生活してきた。まだまだ若造だからなにもわかってはいないけれど、それらの土地々々について一言二言記しておこうと思う。思い出は放っておくと簡単に色褪せてしまう。歩いてきた道や親しんだ場所のことをまるで忘れてしまうのでは寂しいのだ。
以前に似たような記事を書いた気がするが、重複して読んでいる人も少ないだろうし気のせいだということにして、次の記事から何回かに分けてメモ書きしていこうと思う。
人が住む場所を選べるということはどういうことだろうとということは、もっと考えられてもいいことだろうと思う。東京に一極集中する人口を見ると、せいぜい「都内近郊のどこに住むか」というぐらいがリアルなことで、○○県のどこそこに住みたいとか、特殊な事情がないとなかなか叶えられないものである。海外に住みたいというほうがまだ耳にする気はするけれど、沖縄だ国外に住むのは容易なことではない。
そうこう考えていくと、「京都に住みたい」というのはなかなか現実味がある。大学がたくさんあるので学生として京都に住まいを移すこともあるだろうし、規模の大きい都市だから仕事を探すことも全く無理ではない。名勝景勝の地も盛りだくさんだから好きな人にはたまらないだろう、といういい土地である。実は私も京都に住んで学生をやったことがあるのだけど、思い起こせばほかにも色んなところで生活してきた。まだまだ若造だからなにもわかってはいないけれど、それらの土地々々について一言二言記しておこうと思う。思い出は放っておくと簡単に色褪せてしまう。歩いてきた道や親しんだ場所のことをまるで忘れてしまうのでは寂しいのだ。
以前に似たような記事を書いた気がするが、重複して読んでいる人も少ないだろうし気のせいだということにして、次の記事から何回かに分けてメモ書きしていこうと思う。
月並みだが新世界には切り取られた時間の痕がある。スマートボールの店や二度づけ禁止の串かつ屋などが立ち並び、地域は観光に寄り添って生きている。それでもなお、カオスな空気を湛えつつある。ベタベタな観光客相手の店が立ち並ぶ界隈からJRのガードのほうへと抜ける途中のジャンジャン横丁は、レトロな雰囲気を残したままの飲食店や碁会所、麻雀店などが立ち並んでいて、そうした場所に観光として来るひとはもちろん馴染んだ生活の場として行き来するひともたくさんいる。横丁の中ほどに昔のその場を撮影したモノクロ写真が貼られて、「今と昔」というような比較がなされているが、これほど変わっていない場所は珍しいだろうからこれは必見である。(もちろん「変わったなあ」という声がゴマンとあるのを承知した上で、しかしそう思うのだ。)
横丁の飲食店ではみな昼間から酒を飲んでいるがここではそれがデフォルトであろう。そういった店が一軒二軒あるのではなくみなそうなのだから、確かに日ごろ触れない世界である。串かつやどて焼きと書いた店が多いがほかにすし屋も多く軒を連ねる。今回は串かつ屋にほんの少し寄り道したのだけど、今度はすし屋に寄ろうと思う。なにもわざわざ新世界まで来て生魚食わいでも、と思うような場所だからこそ一度行って見たい。
ほかにはお決まりごとのようにスマートボールを嗜んだが、モノの古さを楽しむものでゲーム性を云々するようなもではなくなっているのが残念だ。
さて、新世界にはもう一つ足を運んでおきたい店があって、日本で唯一のチューリップ専門パチンコ店、ニュー三共。羽モノやチューリップ台ばかりが並んでいて、回転式の玉貸し機(これは見ないとわからない)がなんと現役でござい。ぱっとみ釘はやばかったが、カウンターで1000円札渡して玉を貰い少々遊ぶ。
その後ディープサウスといわれる西成・あいりん地区を少し見てまたUターンし通天閣をのぼったのだが(しかし高所恐怖症なので心拍数がえらいことになるだけだった)、こちらは少しお題から外れるので割愛。立ち寄った串かつ屋は「八重勝」というお店で、観光客をメインにやたら流行っている。確かにボリュームがあってなかなか美味しく、雰囲気もあるので各種メディアで取りあげられるのだろうか。
左から順に
・通天閣の見える景色
・スマートボール
・レトロパチンコ屋へ
・レトロパチンコ台
・おまけ:昔はみなこういう気持ちだった?




横丁の飲食店ではみな昼間から酒を飲んでいるがここではそれがデフォルトであろう。そういった店が一軒二軒あるのではなくみなそうなのだから、確かに日ごろ触れない世界である。串かつやどて焼きと書いた店が多いがほかにすし屋も多く軒を連ねる。今回は串かつ屋にほんの少し寄り道したのだけど、今度はすし屋に寄ろうと思う。なにもわざわざ新世界まで来て生魚食わいでも、と思うような場所だからこそ一度行って見たい。
ほかにはお決まりごとのようにスマートボールを嗜んだが、モノの古さを楽しむものでゲーム性を云々するようなもではなくなっているのが残念だ。
さて、新世界にはもう一つ足を運んでおきたい店があって、日本で唯一のチューリップ専門パチンコ店、ニュー三共。羽モノやチューリップ台ばかりが並んでいて、回転式の玉貸し機(これは見ないとわからない)がなんと現役でござい。ぱっとみ釘はやばかったが、カウンターで1000円札渡して玉を貰い少々遊ぶ。
その後ディープサウスといわれる西成・あいりん地区を少し見てまたUターンし通天閣をのぼったのだが(しかし高所恐怖症なので心拍数がえらいことになるだけだった)、こちらは少しお題から外れるので割愛。立ち寄った串かつ屋は「八重勝」というお店で、観光客をメインにやたら流行っている。確かにボリュームがあってなかなか美味しく、雰囲気もあるので各種メディアで取りあげられるのだろうか。
左から順に
・通天閣の見える景色
・スマートボール
・レトロパチンコ屋へ
・レトロパチンコ台
・おまけ:昔はみなこういう気持ちだった?
ある日ミナミにて用事を済ませて、ふと肉が食いたくなった。大阪にてきてから、牛を食いたくなったときには串焼き屋を探すということを覚えていた私は、以前通りかかったことのある一軒の串焼き屋を訪ねた。串焼き屋はたいがい立ち飲みもしくは大衆的な雰囲気のある店なので一人で入るのにも気兼ねしないし、一串ずつ注文できるならばさっくりと飲み食いできるので「ふと」したときには大変都合がいい。鶴橋にてなかなかおいしい串焼き屋に当たってもいるので、ついつい期待してしまう。
ところが、この一軒目のお店はあまり美味しくなかった。まず生ビールが良くなくて、銘柄の好き嫌いは置いても、どうにも嫌な味がする。おおよそ(客が少なくて)樽の回転が悪いか、洗浄が足りていないかのどちらかで生ビールは不味くなるという。周りを見渡してもみな瓶を頼んでいるからよく知れたことなのだろう。少し観察してから、私も瓶にすればよかったと後悔。しかし料理がうまければ些細なことと水に流せるので、しばし注文の品が届くのを待つ。
生センマイといくらかの焼き物を頼んだが、センマイは若干渇き気味で食感が悪く、焼き物も部位の端っこを小さく切ってなおかつ焼きすぎたのか固く、美味しくない。これでは満たされることがなにもないので仕方なくブラつくことにする。二軒目の標的ももちろん肉だが、「一人で気兼ねなく」食べれる焼肉屋というと、簡単には見つからない。むろん焼肉と看板を掲げる店は数あれど、一人前の値段から推測される量であったり店内の雰囲気であったりが、一人焼肉所望者の歩をためらわせる。街歩きは好きなのでたまにはいいかと、繁華街の通りを適当に目についたうちから一本一本歩いていると、とある焼肉屋の前にて興味深いものを見つける。メニューが張り出してあって、珍味・ツラミの刺身とある。ほう、確かにそんなもんには今まで出くわしたことがない。店構えもこじんまりとして値段もはっきりしていることだし、こうした生ものには目が無いときたらこの店で決まりだろう、と思って入店する。
カウンターで8席ほどしかない小さな店を、20代後半と思しきあんちゃんが切り盛りしている。関西風の気さくな喋りで、こちらもまだ若い常連さんと賑やかに話している。しまった、なにやら会話に巻き込まれてしまいそうな雰囲気だ・・・プライベートな食事の席で見ず知らずのお人と喋るのは好きではない。というより、なにせ一人でゆっくりご飯を食べるのが私は好きなのだから、申し訳ないができるだけ距離をとってしっぽりさせていただこう。そんなことを考えているうちに、お目当てのツラミの刺身と、焼き物はハラミとホルモンミックスを注文したのがやってきた。
値段はまあ普通かなあと思っていたが、一人前の量がなかなかに多い!一人で食べきれるかなと心配になりながら、七輪の上に焼き物を乗っけておいて、まずはツラミの刺身をいただく。うーむ、美味しいねえ。もともとはかなり固いツラミを、専用の機械にてごく薄くスライス。脂と赤身がきれいに分かれた刺身をわさび醤油でいただくスタイル。噛み応えのあるお肉から肉の旨みとほんのりとした甘さが滲みだす。ものすごく、酒に合いそうだ。そしてふと気づく。なにかとっても似ているんだ、この食べ物。それは・・・
イベリコ豚の生ハム。見た目も、噛み応えや味のクセも、生ハムのちょっと固くて赤身の旨みが濃いのとよく似ているんだ。そもそも、スライスされた見た目もよく似ている。それがスモークされてなくて純和風の食べ物になった、それが今回のツラミの刺身である。いやあ珍しいものをいただけてよかった。すごく美味しい!これでなきゃ!というインパクトは別段無いが、普通に美味しい上に値段も手ごろだったために大変満足な挑戦となった。
ちなみにほかの焼き物もなかなか美味しくてリーズナブルなので、塩タンも追加注文して食べた。ほんとう、お腹がはちきれんばかりにお肉を食べたよ。普段使いには気兼ねなく立ち寄れていいお店だろうと思うので、機会があればまた立ち寄りたい。
ところが、この一軒目のお店はあまり美味しくなかった。まず生ビールが良くなくて、銘柄の好き嫌いは置いても、どうにも嫌な味がする。おおよそ(客が少なくて)樽の回転が悪いか、洗浄が足りていないかのどちらかで生ビールは不味くなるという。周りを見渡してもみな瓶を頼んでいるからよく知れたことなのだろう。少し観察してから、私も瓶にすればよかったと後悔。しかし料理がうまければ些細なことと水に流せるので、しばし注文の品が届くのを待つ。
生センマイといくらかの焼き物を頼んだが、センマイは若干渇き気味で食感が悪く、焼き物も部位の端っこを小さく切ってなおかつ焼きすぎたのか固く、美味しくない。これでは満たされることがなにもないので仕方なくブラつくことにする。二軒目の標的ももちろん肉だが、「一人で気兼ねなく」食べれる焼肉屋というと、簡単には見つからない。むろん焼肉と看板を掲げる店は数あれど、一人前の値段から推測される量であったり店内の雰囲気であったりが、一人焼肉所望者の歩をためらわせる。街歩きは好きなのでたまにはいいかと、繁華街の通りを適当に目についたうちから一本一本歩いていると、とある焼肉屋の前にて興味深いものを見つける。メニューが張り出してあって、珍味・ツラミの刺身とある。ほう、確かにそんなもんには今まで出くわしたことがない。店構えもこじんまりとして値段もはっきりしていることだし、こうした生ものには目が無いときたらこの店で決まりだろう、と思って入店する。
カウンターで8席ほどしかない小さな店を、20代後半と思しきあんちゃんが切り盛りしている。関西風の気さくな喋りで、こちらもまだ若い常連さんと賑やかに話している。しまった、なにやら会話に巻き込まれてしまいそうな雰囲気だ・・・プライベートな食事の席で見ず知らずのお人と喋るのは好きではない。というより、なにせ一人でゆっくりご飯を食べるのが私は好きなのだから、申し訳ないができるだけ距離をとってしっぽりさせていただこう。そんなことを考えているうちに、お目当てのツラミの刺身と、焼き物はハラミとホルモンミックスを注文したのがやってきた。
値段はまあ普通かなあと思っていたが、一人前の量がなかなかに多い!一人で食べきれるかなと心配になりながら、七輪の上に焼き物を乗っけておいて、まずはツラミの刺身をいただく。うーむ、美味しいねえ。もともとはかなり固いツラミを、専用の機械にてごく薄くスライス。脂と赤身がきれいに分かれた刺身をわさび醤油でいただくスタイル。噛み応えのあるお肉から肉の旨みとほんのりとした甘さが滲みだす。ものすごく、酒に合いそうだ。そしてふと気づく。なにかとっても似ているんだ、この食べ物。それは・・・
イベリコ豚の生ハム。見た目も、噛み応えや味のクセも、生ハムのちょっと固くて赤身の旨みが濃いのとよく似ているんだ。そもそも、スライスされた見た目もよく似ている。それがスモークされてなくて純和風の食べ物になった、それが今回のツラミの刺身である。いやあ珍しいものをいただけてよかった。すごく美味しい!これでなきゃ!というインパクトは別段無いが、普通に美味しい上に値段も手ごろだったために大変満足な挑戦となった。
ちなみにほかの焼き物もなかなか美味しくてリーズナブルなので、塩タンも追加注文して食べた。ほんとう、お腹がはちきれんばかりにお肉を食べたよ。普段使いには気兼ねなく立ち寄れていいお店だろうと思うので、機会があればまた立ち寄りたい。
東大阪市を代表する町・布施というのはずいぶん変な町で、市は大変に人口が多くて規模が大きいのに、どこも閑散とした感じがする。商店街は延々と続き、さらに右へ左へと小道が無数に分かれて星の数ほどの商店が存在するのに、活気というものはどうにも、感じにくい。これは東大阪が日本でも有数の工場地帯で、中小の工場が密集しているために独特の生活圏を形成していることが要因になっているのではないかと考えられる。手っ取り早く言えば生活水準の高くない人々がそこに集中しているから、規模の大きい商店街であっても他と比べればどことなく明るく感じられないと言ったことが起こるのではないだろうか。おまけにこの不景気で、町工場なんていうのは大打撃であるから布施という町が閑散とするのは当然といえば当然である。ちなみに西成とは雰囲気はまったく違う。あそこは生活水準が高い低いの前にそれを「生活」と呼ぶかどうかという問題が眼前にある町である。
地方の「シャッター通り」的商店街を、都市部で体現してしまっているなんともカオスなこの町には、やはりというか立ち飲み屋も数ある。所得が低いから物価も安いと考えてよいのだろうか、そのあたりはわからないが調べてみた限り立ち飲み屋はどこもかなり安いようである。そのなかの一軒が「酒処 ひらた」で、この店の看板メニューはおでんと新鮮な魚介類である。
このお店は正式には角打ち(酒屋の一角でごく簡単なつまみとお酒を提供するところ)らしいが、佇まいは立派な店舗、立ち飲み屋である。店内も清潔で、瓶ビールはキリン・アサヒ・サッポロと品揃えがよく、燗酒はきちんとお銚子が湯煎にかけられている。けしていい酒いい値段ではないのに(というか最安ランクなのに)こうした気遣いがなされているのは、酒飲みにとっては実に気分がいい。おでんの鍋は大きく、様々な種類の具が散りばめられている。大根や牛スジといった定番品から、タコ・ねぎま(鮪)、ホタテなどまさにごった煮状態。これが濃厚な出汁を醸しだしているようで、上品とは言えないが大変に滋味あふれるおでんとなっていて実にうまい。よく煮て味の染みた小芋が絶品である。
それから生モノ。毎朝黒門市場から仕入れるという鮮魚類、これも「いいもの」ではなく庶民的なかわりに、鮮度がいい。鯖の刺身が出るくらいである(もちろん関さばとかなんとか、ブランド品ではない)。貝の造りの盛り合わせは、とり貝赤貝など6種ほどがたっぷり盛られて500円であり、好きな人にはたまらない。量の話だけで言えば、これがそこそこのすし屋なら2500円でも文句が無い。高級品ではない代わりに安く、鮮度だけは抜群を保つ、とこれはなかなかいい手法であろう。本当に財布にやさしいのである。ほかに生レバーも大変においしいかった。のれそれ(アナゴの稚魚)なんぞもある。
これは安酒飲みにとってはパラダイスであり、悪くいえばアル中製造所でもあるのかもしれないけど、町を味わって雑踏を聞きながら・・・つまりある種の上品さから離れて飲むことが好きな人間にとっては趣きの境地である。雑誌やテレビの大衆居酒屋特集に出てきそうな「味わい」もない。あるのは超いい加減な理屈で今年の阪神の行く末を占っているおっちゃんと酒とつまみだけである。「ひらた」の店員は愛想が良くて気さくである。
布施という町は、不景気という日本の灰色部分をそのまま絵に写したような町で僕には肌馴染みが悪い。なかなか好きになることはなさそうだが、「ひらた」のようにひっそりと、(味と価格で言えば大名店なのに、)何事もないように雑踏に囲まれてある店というのは、布施のような町にしか存在し得ないのかもしれない。


地方の「シャッター通り」的商店街を、都市部で体現してしまっているなんともカオスなこの町には、やはりというか立ち飲み屋も数ある。所得が低いから物価も安いと考えてよいのだろうか、そのあたりはわからないが調べてみた限り立ち飲み屋はどこもかなり安いようである。そのなかの一軒が「酒処 ひらた」で、この店の看板メニューはおでんと新鮮な魚介類である。
このお店は正式には角打ち(酒屋の一角でごく簡単なつまみとお酒を提供するところ)らしいが、佇まいは立派な店舗、立ち飲み屋である。店内も清潔で、瓶ビールはキリン・アサヒ・サッポロと品揃えがよく、燗酒はきちんとお銚子が湯煎にかけられている。けしていい酒いい値段ではないのに(というか最安ランクなのに)こうした気遣いがなされているのは、酒飲みにとっては実に気分がいい。おでんの鍋は大きく、様々な種類の具が散りばめられている。大根や牛スジといった定番品から、タコ・ねぎま(鮪)、ホタテなどまさにごった煮状態。これが濃厚な出汁を醸しだしているようで、上品とは言えないが大変に滋味あふれるおでんとなっていて実にうまい。よく煮て味の染みた小芋が絶品である。
それから生モノ。毎朝黒門市場から仕入れるという鮮魚類、これも「いいもの」ではなく庶民的なかわりに、鮮度がいい。鯖の刺身が出るくらいである(もちろん関さばとかなんとか、ブランド品ではない)。貝の造りの盛り合わせは、とり貝赤貝など6種ほどがたっぷり盛られて500円であり、好きな人にはたまらない。量の話だけで言えば、これがそこそこのすし屋なら2500円でも文句が無い。高級品ではない代わりに安く、鮮度だけは抜群を保つ、とこれはなかなかいい手法であろう。本当に財布にやさしいのである。ほかに生レバーも大変においしいかった。のれそれ(アナゴの稚魚)なんぞもある。
これは安酒飲みにとってはパラダイスであり、悪くいえばアル中製造所でもあるのかもしれないけど、町を味わって雑踏を聞きながら・・・つまりある種の上品さから離れて飲むことが好きな人間にとっては趣きの境地である。雑誌やテレビの大衆居酒屋特集に出てきそうな「味わい」もない。あるのは超いい加減な理屈で今年の阪神の行く末を占っているおっちゃんと酒とつまみだけである。「ひらた」の店員は愛想が良くて気さくである。
布施という町は、不景気という日本の灰色部分をそのまま絵に写したような町で僕には肌馴染みが悪い。なかなか好きになることはなさそうだが、「ひらた」のようにひっそりと、(味と価格で言えば大名店なのに、)何事もないように雑踏に囲まれてある店というのは、布施のような町にしか存在し得ないのかもしれない。
