雑然と。混交、リンク、伝播、ハイブリッド、情報化!
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江戸湾というのがある。今とは地形が違って、江戸という呼称がまだ古いものを指すのではなかったころ、今の東京湾あたしのことをそう呼んだというのは大体想像できるだろう。現在江戸湾という呼称を使うことはほとんどないだろうけど、それを僕はよく想像する。
***
僕は江戸に生まれたかったなと思うことがちょっとある。江戸前でたくさん魚がとれて新鮮でうまいのではないかと思うからなのだが、それには少し面倒なイメージが纏わり付く。それは例えば単に、おいしいものを食べたいからとか環境破壊を恨んでいるから、ということではない。そうではなくて、今現在の東京湾でとれる魚がおいしくないこと、たった今とれたてのはずの魚が水質の問題などで臭くて食べ辛いということが、あまりに不自然な現象として嘔吐的な気持ち悪さを呼びこんでしまうからだ。つまり自然があまりに自然の体をなしていないことが気持ち悪いのである。
しかし一方で姿かたちのそのままの自然を好きだと思うことは無い。密林や深海といった強く美しい自然をそのまま受け入れることはできない。荒々しさと脆さが美しく見えて神を想像させるときほど、一方で拒否感が増していく。それらとずっと触れ合っていたいとはどうしても思えない。知っているだけでいい、広大な自然というのは大体こんな風にあるのかなと未熟な想像力を働かせることさえできればいい。身近なところでいえば人体や、土地と血縁に「根付く」といったことにも拒否感は強く表れる。
いつしか悩みごとの全てはこの二つに還元される。僕はいったいなにを、どこでしたいのか。生命としての自分をどう扱えばいいのか。他人との会話、社会での生きかた、自己満足と自己犠牲、自分が持つ悩みの全てはいつしか「自然」と「不自然」の二つから力を与えられて、拮抗する。いやなことがあったら、それを「自然」的部分と「不自然」的部分にわけて考えてしまい、そのどちらにも抗えないでしまう。僕は生きてなにと戯れたいのかわからなくなってしまう。
近代的なビルや都市は嫌いではない。東京は好きである。整理されて立派なビルが立ち並ぶぶん、煩雑さと汚さを兼ね備えた影や路地裏が生まれてもいる。都庁の無骨さとといったらない。高いところが嫌いだからよほどの用事でもない限りのぼるつもりも無いが見た目の無骨さは大好きだ。少し薄暗いけれど安くてうまい大衆居酒屋に紛れてしまうのはほんとうに気持ちがいい。だから都市は好きである。歌舞伎町も。だけど海外ブランドのスーツを着たりスポーツカーに乗ったり流行りの時計を嵌めたりするのはどうしても好きになれない、「感性は二の次」とおざなりにされている気がするし想像力があまりに他人任せだからその不自然さはすごく強調されて見える。それを提供しようとする表参道ヒなんとかとかなんとかギヒルズとかもだからなのかな、好きになれない。
どこまでも続く青い海空(つまり沖縄)や霊験あらたかな山々(つまり紀州)も気兼ねして困る。感動しなさいといわれているように感じても、僕は人間で浅知恵のついた猿だからそんなところで裸で生きるわけにはいかないとなにかが言う。裸になって生きる心算でのびのびと暮らせということは、たぶん最初の5文字で聞くのをやめてしまう。どうせならハワイぐらいだらだらしているほうがよい。夜中に銃声が聞こえるのだとしても。
生きるということを本当にわかることはないのだ、という人もある。死というのは他人の死しか経験することができず、自分の死は経験することができないのだから、死と相対的な関係にある生を確実に経験するということはできないのだと。つまり死の反対の生も生の反対の死もやってくることは無いのだと。なのに生き死にする。そうした自然の摂理に巻き込まれるのに嫌悪する一方で、全てにメスを入れようとする最先端医療よ、出来るというな、遺伝子組み換えだとかクローンだとか可能であるといってくれるな、僕に教えるんじゃないと1/10000スケールの僕がいう。その小さな僕を僕はみたことがない。射精する。受精する。生まれる。泣く。笑う。大きくなる。病気をする。手をつなぐ。また病気をする。老いる。輪廻でなく断線されたそれ、むき出しの生を僕は時折受け付けなくなる。
僕は昔、仙人になりたい(みたいな生活をしたい)なあと思ったことがある。山深い場所で苔むした庵に住む。思考はなんとなくなされていればおっけーで仕事はきちんとする。でもそれは山に住みたいから山に住むのではない。ときおり山から里へと下りたいから山に住むのだ。そのぐらいのつもりしかないからきっと僕は山に住めない・・・
自然と不自然のあいだ。
自然物を触って切ってこねこねして火を操って食う。料理。または酒。手をかけて造ったもので気持ち良くなる。いい匂い。
賭け事。確率の神様と遊ぶ。せいぜい頭を使って考える。サイコロ。札。馬。牌。将棋も。盤面は宇宙。
古物。造ったものが古くなる。歴史。誰かが書いたもの。みんな知っている歴史、ほとんどの人が知らない歴史。または嘘と言える歴史。
陰翳。
運動。肉体をコントロールする。枠組みの中で最大限に自由に動く。サッカー。野球。枠がなければ自由は発揮されないのだと気づく瞬間。ゴールを知らないのに最大限に走ることは出来ない。距離によって走り方が違うからだ。だからそれが用意される。その自由のために鍛錬もなされる。
***
好きなものを想像することが難しくなったとき、嫌なものばかりが顔を出す。それが不自然と自然。だから僕はあいだを語ることが出来なければならない。語ることによってあいだは確かにあるのだと幻覚させる。決して線引きしてわけることのできない、かつ混ざり合うことのないなにか。その二つと二つのあいだがあることを想像できなければ、僕は面倒くさくなってしまうだろう。
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僕は江戸に生まれたかったなと思うことがちょっとある。江戸前でたくさん魚がとれて新鮮でうまいのではないかと思うからなのだが、それには少し面倒なイメージが纏わり付く。それは例えば単に、おいしいものを食べたいからとか環境破壊を恨んでいるから、ということではない。そうではなくて、今現在の東京湾でとれる魚がおいしくないこと、たった今とれたてのはずの魚が水質の問題などで臭くて食べ辛いということが、あまりに不自然な現象として嘔吐的な気持ち悪さを呼びこんでしまうからだ。つまり自然があまりに自然の体をなしていないことが気持ち悪いのである。
しかし一方で姿かたちのそのままの自然を好きだと思うことは無い。密林や深海といった強く美しい自然をそのまま受け入れることはできない。荒々しさと脆さが美しく見えて神を想像させるときほど、一方で拒否感が増していく。それらとずっと触れ合っていたいとはどうしても思えない。知っているだけでいい、広大な自然というのは大体こんな風にあるのかなと未熟な想像力を働かせることさえできればいい。身近なところでいえば人体や、土地と血縁に「根付く」といったことにも拒否感は強く表れる。
いつしか悩みごとの全てはこの二つに還元される。僕はいったいなにを、どこでしたいのか。生命としての自分をどう扱えばいいのか。他人との会話、社会での生きかた、自己満足と自己犠牲、自分が持つ悩みの全てはいつしか「自然」と「不自然」の二つから力を与えられて、拮抗する。いやなことがあったら、それを「自然」的部分と「不自然」的部分にわけて考えてしまい、そのどちらにも抗えないでしまう。僕は生きてなにと戯れたいのかわからなくなってしまう。
近代的なビルや都市は嫌いではない。東京は好きである。整理されて立派なビルが立ち並ぶぶん、煩雑さと汚さを兼ね備えた影や路地裏が生まれてもいる。都庁の無骨さとといったらない。高いところが嫌いだからよほどの用事でもない限りのぼるつもりも無いが見た目の無骨さは大好きだ。少し薄暗いけれど安くてうまい大衆居酒屋に紛れてしまうのはほんとうに気持ちがいい。だから都市は好きである。歌舞伎町も。だけど海外ブランドのスーツを着たりスポーツカーに乗ったり流行りの時計を嵌めたりするのはどうしても好きになれない、「感性は二の次」とおざなりにされている気がするし想像力があまりに他人任せだからその不自然さはすごく強調されて見える。それを提供しようとする表参道ヒなんとかとかなんとかギヒルズとかもだからなのかな、好きになれない。
どこまでも続く青い海空(つまり沖縄)や霊験あらたかな山々(つまり紀州)も気兼ねして困る。感動しなさいといわれているように感じても、僕は人間で浅知恵のついた猿だからそんなところで裸で生きるわけにはいかないとなにかが言う。裸になって生きる心算でのびのびと暮らせということは、たぶん最初の5文字で聞くのをやめてしまう。どうせならハワイぐらいだらだらしているほうがよい。夜中に銃声が聞こえるのだとしても。
生きるということを本当にわかることはないのだ、という人もある。死というのは他人の死しか経験することができず、自分の死は経験することができないのだから、死と相対的な関係にある生を確実に経験するということはできないのだと。つまり死の反対の生も生の反対の死もやってくることは無いのだと。なのに生き死にする。そうした自然の摂理に巻き込まれるのに嫌悪する一方で、全てにメスを入れようとする最先端医療よ、出来るというな、遺伝子組み換えだとかクローンだとか可能であるといってくれるな、僕に教えるんじゃないと1/10000スケールの僕がいう。その小さな僕を僕はみたことがない。射精する。受精する。生まれる。泣く。笑う。大きくなる。病気をする。手をつなぐ。また病気をする。老いる。輪廻でなく断線されたそれ、むき出しの生を僕は時折受け付けなくなる。
僕は昔、仙人になりたい(みたいな生活をしたい)なあと思ったことがある。山深い場所で苔むした庵に住む。思考はなんとなくなされていればおっけーで仕事はきちんとする。でもそれは山に住みたいから山に住むのではない。ときおり山から里へと下りたいから山に住むのだ。そのぐらいのつもりしかないからきっと僕は山に住めない・・・
自然と不自然のあいだ。
自然物を触って切ってこねこねして火を操って食う。料理。または酒。手をかけて造ったもので気持ち良くなる。いい匂い。
賭け事。確率の神様と遊ぶ。せいぜい頭を使って考える。サイコロ。札。馬。牌。将棋も。盤面は宇宙。
古物。造ったものが古くなる。歴史。誰かが書いたもの。みんな知っている歴史、ほとんどの人が知らない歴史。または嘘と言える歴史。
陰翳。
運動。肉体をコントロールする。枠組みの中で最大限に自由に動く。サッカー。野球。枠がなければ自由は発揮されないのだと気づく瞬間。ゴールを知らないのに最大限に走ることは出来ない。距離によって走り方が違うからだ。だからそれが用意される。その自由のために鍛錬もなされる。
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好きなものを想像することが難しくなったとき、嫌なものばかりが顔を出す。それが不自然と自然。だから僕はあいだを語ることが出来なければならない。語ることによってあいだは確かにあるのだと幻覚させる。決して線引きしてわけることのできない、かつ混ざり合うことのないなにか。その二つと二つのあいだがあることを想像できなければ、僕は面倒くさくなってしまうだろう。
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