忍者ブログ
雑然と。混交、リンク、伝播、ハイブリッド、情報化!
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

先日ふらりと思い立って新世界を歩いてきた。通天閣の周囲は観光地化しているけれど、まだまだ混沌とした雰囲気が残っている。西成~天下茶屋のほうまで足を伸ばせば、あたりに漂う空気はどんどんと濃くなっていくだろう。日本にこういう場所があって、今に至るまでたくさん消えて、東京あたりではよほど選んで行かなければ触れ合うことも無い、そうした混沌の姿を、ほんの少しだけ肌身に感じられる。大阪はこんなものを抱えているのかという気分も、もちろんする。1500円の安宿。放浪する人。混沌は窒息しそうになりながら、ぎりぎり息づいている。テレビやコンビニからは、混沌を掻き消すような整然とした情報が街に垂れ流されていく。
日本人は、というととても語弊があるのだけど、ぼくらは、日本をあまり歩いたりはしないのかもしれない。余暇を海外で過ごす人は多い。日本人の平均労働時間は欧米先進諸国のそれと比べてずいぶん多く、「日本人は働きすぎ」説は神話ではない。それを国民性とだけ言うのは僕は好まないけど、働くために都市部に、東京に人が流れ込み、すごくたくさん働いて、明日から働くために休み、家族がなんとかそれを下支えするというのは嘘ではないだろう。たくさん働くために、東京にたくさんの人が集まる。余暇が少ないから各地をのんびりと旅をすることは難しく、大型連休はずいぶん長い間、車に乗る。でなきゃ海外。
そうして生まれる疲弊を、憂慮したいのでも皮肉りたいのでもない。あまりに一箇所に人が集まりすぎたために地方が空洞化し、メタボリックになった東京に、閃光のように走った衝撃、地震。大阪の混沌を歩くと、これから考えなければいけない計画停電や、経済の復興を、東京とそれ以外の土地とのパワーバランスのことが、頭をよぎる。原発の話を聞くと、日本では、たくさん働くためにインフラを整備して原発を作ったのが、働いて成長してきた経済を今度はその原発が壊しかねないという、そんな状況なのかと考えてしまう。
福島とその近辺は風評被害を恐れているという。いま恐れるべきはそんなことじゃないよなあと思ったりもする。なにより大切なのは、人体に影響がでるくらいの放射線が頒布しているなら、まず安全な場所にまでかの地の人たちが逃げられるようにするべきで、ほんとのところ、放射線、大丈夫なのかなあという気持ちがある。駄目なのなら、早く言って欲しい、いち早く当地の人たちが逃げることが出来るよう、他府県で体制を整えなければいけないと思ってしまう。風評被害よりもとにかく実害を避けることが大事なのに、どうも政府の発表を聞く限りでは、基準値が上下したりの、専門家の言うこともあまりクリアに聞こえてこなかったりの、困る、怖い。誰かが危険に晒されなければいけないかもしれない、この国で、家もコンビニもパチンコ屋も政党政治もGDPもあるこの国で誰かが放射線による被害にあわなければならないとしたら、それが僕は怖い、辛い、そう思ったりする。
一方でこうも考えられる。あまりに情報を素で出したりなんかして混乱してしまうと、収拾が付かなくなる。そうなれば経済や復興の観点から大いに支障が出るし、パニックになって様々なものが機能しにくくなればそちらのほうが嫌な結果を迎える、そう考えてもいいのかもしれない、もしくはそう考えられているのかもしれない。かもしれない。そんなことはよくわからないんだきっと。原発の詳細なんかぽんぽんメディアで発表してしまえば、テロリストや悪意ある隣人にそうした情報を悪用されかねん!とか言って、全く、その通りかもしれないし。ただちに健康被害がなくても、がんにならなくても、なんとなく70歳で体調が悪くなって、72歳で死んだ僕が、実は内部被爆していなかったら73歳まで生きれたってこともあるかもしれない。知らないよね、そんなこと。
地震が起きてからこのかた、個人的にたった一つだけ民主党に大変に感謝していることがある。彼らの統率力があまりにもお粗末なために、国民が「総動員になって」とか「今こそみんなで力を合わせて」とか機能しなくって、ナショナリズム、いつかきな臭くなる「かもしれない」あのナショナリズムがだんぜん強さを見せていないような気がする。米国みたいに個人主義の行き届いた国じゃないから、一度連帯や愛国が力を持てば根強く残るかもしれない、とか思うけど、今回はそうじゃないっぽい。僕がすごく苦手にしているものであるのでそれが発生しないならば嬉しい。かもしれないっぽいがたくさん。
放射線被爆は明確でそこそこの程度の被爆者が出ない限り報道されたり放射線が危険だと断定されたりしないんだろうか。もしくはそうした人が仮にいたとしても多くの人が知ることのないように工夫されているんだろうか。それは困る。ある教授が言っていた。「原子力のような強力巨大な科学は、そもそも絶対安全と言えるレベルじゃないと使用したらいけない。絶対安全、というのはむしろ最低限必要なこと、あたりまえのこと。そのように裏打ちされたものを、それでも万一に備えてさらに万全の準備を施すのが、原子力のようなものを使用するときに必要とされるものだ。しかし、彼らは「絶対安全」と人々に説いていくうち、自ら自己催眠のように本当に「絶対安全」だと思っちゃった。だから、予備電源だか復旧システムだか、津波が来たらすぐ流されるのがわかっているような場所に据付けられていたりなんかして、非常に備えたシステムがまるで機能しないような事態が起こるのだ、と。そしてもちろん、「絶対安全」だと思うのは、「絶対勝てる」と思っていたあの戦争と相似する、国民を鼓舞するために絶対勝てるといい続けていた人たちが、本当に勝てると思い込んだあのときと、イメージが重なりもする」のだと。(うろ覚えだし、僕の言葉で書いているので、文責はその教授にはありません、念のため)
なるほどと思う。驚くことである。それでは、原発安全神話という虚像が壊れた今は、敗戦後と重ねられるのだろうか。僕は敗戦で構わない、勝利が必要だと思わないから。敗戦だったら敗戦だったで、あれから復興したように、またみんな元気でやり直して、しかも地震以前よりうまいことやればいい。余暇があって地方が元気で地方の温泉地が栄えて僕の生まれ育った伊勢志摩にもたくさん人がくればいい。東北は日本で一番暮らしやすい場所になって欲しい。
今は色んなところで色んな人が喋っていて、情報は錯綜して、本当のこと、真実というがなにか分からない・ありもしないという中で言葉を使って、発信して混乱するし迷惑だし、マスコミも同じようなニュースばっかやって一つにまとめたらちょっとは資源が儲かるんじゃないのとか、考えられないわけじゃないけども、まあいいんじゃないのと思う。みんな物わかりがよくって専門家以外黙ってて、マスコミが洗練された動きと報道しかしなかったら、気持ち悪いかなあという気がするから。そうなったらきっとへんなイデオロギーを感じずには、テレビを見たりtwitter見たり出来ないだろうから。利権まみれのACってのもまあ、気分は良くないんだけども。
自粛自粛というのはなんか気持ち悪くて、むしろ企業のほうが活動を自粛したら節電も出来て、とかもあるけど、そうするとパワーゲームという側面が前面化して中小企業から順番に潰れていかもしれず、そうなってはまた困るからそれもどうなんだと思う。
それから、高校野球を見ていて、応援しているチアの女の子が涙をたたえたような目で、祈るようにしているのをみると、どうしても被災地への祈りがそこにあるのではないかと一瞬頭をよぎってしまう、別にそれがどうしたというわけでもないんだけど。


僕なんか家族も全く被災していないし、テレビ見てネット見て知ってる人と知らない人の心配してるばっかりで、募金もいくらだったか忘れるくらいしかしていないけど、要するに僕も結構ストレス溜まって疲れているなあ、ということらしい。日を追って地震について考えたくなくなってくるから余計考えてしまう上に、ひと考えふた疲れという風にダメージがでかくなっていってんの。こうして長文書かずにはいられないわけだし。んもう、ゲームでもしに行くっか。

拍手[0回]

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
カレンダー
09 2025/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新CM
最新TB
プロフィール
HN:
ひこぼう
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
カウンター

Copyright © [ ぺかぺか131 ] All rights reserved.
Special Template : 忍者ブログ de テンプレート
Special Thanks : 忍者ブログ
Commercial message : [PR]