雑然と。混交、リンク、伝播、ハイブリッド、情報化!
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
まず、亡くなられた方へのご冥福をお祈りいたしますとともに、被災地の一日でも早い復興と、できるだけ多くの方のご無事を願っております。
あまりにも巨大な出来事が一瞬のうちに発生したわけで、恐怖感とともに、自然や生きることや暮らすことへのなんとも言えない感情が自分の中で渦巻いています。瞬く間に剥奪されること、そこにあったはずの数多くの日常が次の瞬間にまるで予測もしていないものに変わること、またはこの世ではないところに(一度に大勢の人が)連れて行かれることなど、自分の(もしくは人の)想像力の拙さは常々意識はしていますが、あまりに驚いてしまうことで、悲しみや怖さが背中から剥がれない。
僕はなんのかんので日本が好き、というのではないけれど、風景や場所や路地などが好きで、田舎にぽつねんと立つ一軒屋の囲炉裏で、土瓶で酒を温めて飲むという情景なんかが好きで、例えばそうしたものが一瞬で流れてしまうということの発生、それがすごく怖く悲しく感じてしまうというのがあります。それはアイルランドのパブでも台湾の屋台でもいい。土地と生活、そういったものを見る味わうことが好きで、その破綻はとても怖いです。好き嫌いの問題で言えば、逆に血やイデオロギーと言ったものは好きではなく、よって地=血という感覚も馴染まず、粋や誇りは自分に注射して他人を煽るものでなければいい、と感じていたりもします。ぶっちゃけて言えば家族という機構が好きではなく、極端な感じ方をしているのかもしれません。中上健次が苦手なのも、だからだと思います。子どもや赤さんは存在がとても好きです。
大地震に接したことにより日々いろいろなことが頭を巡りますが(阪神淡路のときはそうなるにはあまりに幼すぎた)、あるときある場所で正しい情報が時と場所を変えれば誤解を生むものになったり、遠く離れた人のことを心配することの難しさや、信じることや行動することの(への)障害というものを目の当たりにして、勉強になったり混乱しています。
原発の被害も少なくてすめばいいなあ。
気が早いですが、夏あたりに可能な状態になっていれば東北へ旅行しようかなと考えたりもします。それから、東北地方に関連する企業の株を、お金がないのでほんの少しですが、買おうかとも考えています。たくさんの金額を寄付することは難しいですが、株を買うという形が僕にとってはいくらか壁の低い震災援助への参加の仕方でもあります。
それから、少し防災用品も購入し用意し始めています。懐中電灯や電池など、少しだけ買っています。それは、もし近くまた大きな地震がこちらであったとき、自分の身を守ることができれば、わずかでも救助の必要がなくなり全体の負担が軽減されるからです。「全体」という言葉は好きではありません。物資の正常な需給の妨げにならないよう、手っ取り早く言えば無駄な買い占め行為に加担せぬよう、備蓄もしておかなければと思っています。実家から米を送ってもらいました。(←他力本願)
実家は海辺の小さな町・・・村にあり、津波が来れば今回ほど大規模なものでなくとも全壊の恐れが多分にあり、つまりは家族の生命も存分に危険な状態に晒されることは簡単に予見できるので、実家のほうではいま防災について真摯に考を深めるとともに、眠入りの悪くなる日々をすごしているようで、僕も心配しています(家は東海地方某所にあり、東海地方に大きな地震があれば間違いなく被災してしまいます)。
ブログや日記の類を書くというのも重労働に感じられる一週間が過ぎましたが、今後も状況の変化に注視しつつ、生活というものを感じて生きたいと思います。
追記:いま過去の記事を見返したら9日に地震に関連する話を記している。符号が一致する、ぶるりとする気持ち悪さ。
あまりにも巨大な出来事が一瞬のうちに発生したわけで、恐怖感とともに、自然や生きることや暮らすことへのなんとも言えない感情が自分の中で渦巻いています。瞬く間に剥奪されること、そこにあったはずの数多くの日常が次の瞬間にまるで予測もしていないものに変わること、またはこの世ではないところに(一度に大勢の人が)連れて行かれることなど、自分の(もしくは人の)想像力の拙さは常々意識はしていますが、あまりに驚いてしまうことで、悲しみや怖さが背中から剥がれない。
僕はなんのかんので日本が好き、というのではないけれど、風景や場所や路地などが好きで、田舎にぽつねんと立つ一軒屋の囲炉裏で、土瓶で酒を温めて飲むという情景なんかが好きで、例えばそうしたものが一瞬で流れてしまうということの発生、それがすごく怖く悲しく感じてしまうというのがあります。それはアイルランドのパブでも台湾の屋台でもいい。土地と生活、そういったものを見る味わうことが好きで、その破綻はとても怖いです。好き嫌いの問題で言えば、逆に血やイデオロギーと言ったものは好きではなく、よって地=血という感覚も馴染まず、粋や誇りは自分に注射して他人を煽るものでなければいい、と感じていたりもします。ぶっちゃけて言えば家族という機構が好きではなく、極端な感じ方をしているのかもしれません。中上健次が苦手なのも、だからだと思います。子どもや赤さんは存在がとても好きです。
大地震に接したことにより日々いろいろなことが頭を巡りますが(阪神淡路のときはそうなるにはあまりに幼すぎた)、あるときある場所で正しい情報が時と場所を変えれば誤解を生むものになったり、遠く離れた人のことを心配することの難しさや、信じることや行動することの(への)障害というものを目の当たりにして、勉強になったり混乱しています。
原発の被害も少なくてすめばいいなあ。
気が早いですが、夏あたりに可能な状態になっていれば東北へ旅行しようかなと考えたりもします。それから、東北地方に関連する企業の株を、お金がないのでほんの少しですが、買おうかとも考えています。たくさんの金額を寄付することは難しいですが、株を買うという形が僕にとってはいくらか壁の低い震災援助への参加の仕方でもあります。
それから、少し防災用品も購入し用意し始めています。懐中電灯や電池など、少しだけ買っています。それは、もし近くまた大きな地震がこちらであったとき、自分の身を守ることができれば、わずかでも救助の必要がなくなり全体の負担が軽減されるからです。「全体」という言葉は好きではありません。物資の正常な需給の妨げにならないよう、手っ取り早く言えば無駄な買い占め行為に加担せぬよう、備蓄もしておかなければと思っています。実家から米を送ってもらいました。(←他力本願)
実家は海辺の小さな町・・・村にあり、津波が来れば今回ほど大規模なものでなくとも全壊の恐れが多分にあり、つまりは家族の生命も存分に危険な状態に晒されることは簡単に予見できるので、実家のほうではいま防災について真摯に考を深めるとともに、眠入りの悪くなる日々をすごしているようで、僕も心配しています(家は東海地方某所にあり、東海地方に大きな地震があれば間違いなく被災してしまいます)。
ブログや日記の類を書くというのも重労働に感じられる一週間が過ぎましたが、今後も状況の変化に注視しつつ、生活というものを感じて生きたいと思います。
追記:いま過去の記事を見返したら9日に地震に関連する話を記している。符号が一致する、ぶるりとする気持ち悪さ。
PR
この記事にコメントする