雑然と。混交、リンク、伝播、ハイブリッド、情報化!
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江戸湾というのがある。今とは地形が違って、江戸という呼称がまだ古いものを指すのではなかったころ、今の東京湾あたしのことをそう呼んだというのは大体想像できるだろう。現在江戸湾という呼称を使うことはほとんどないだろうけど、それを僕はよく想像する。
***
僕は江戸に生まれたかったなと思うことがちょっとある。江戸前でたくさん魚がとれて新鮮でうまいのではないかと思うからなのだが、それには少し面倒なイメージが纏わり付く。それは例えば単に、おいしいものを食べたいからとか環境破壊を恨んでいるから、ということではない。そうではなくて、今現在の東京湾でとれる魚がおいしくないこと、たった今とれたてのはずの魚が水質の問題などで臭くて食べ辛いということが、あまりに不自然な現象として嘔吐的な気持ち悪さを呼びこんでしまうからだ。つまり自然があまりに自然の体をなしていないことが気持ち悪いのである。
しかし一方で姿かたちのそのままの自然を好きだと思うことは無い。密林や深海といった強く美しい自然をそのまま受け入れることはできない。荒々しさと脆さが美しく見えて神を想像させるときほど、一方で拒否感が増していく。それらとずっと触れ合っていたいとはどうしても思えない。知っているだけでいい、広大な自然というのは大体こんな風にあるのかなと未熟な想像力を働かせることさえできればいい。身近なところでいえば人体や、土地と血縁に「根付く」といったことにも拒否感は強く表れる。
いつしか悩みごとの全てはこの二つに還元される。僕はいったいなにを、どこでしたいのか。生命としての自分をどう扱えばいいのか。他人との会話、社会での生きかた、自己満足と自己犠牲、自分が持つ悩みの全てはいつしか「自然」と「不自然」の二つから力を与えられて、拮抗する。いやなことがあったら、それを「自然」的部分と「不自然」的部分にわけて考えてしまい、そのどちらにも抗えないでしまう。僕は生きてなにと戯れたいのかわからなくなってしまう。
近代的なビルや都市は嫌いではない。東京は好きである。整理されて立派なビルが立ち並ぶぶん、煩雑さと汚さを兼ね備えた影や路地裏が生まれてもいる。都庁の無骨さとといったらない。高いところが嫌いだからよほどの用事でもない限りのぼるつもりも無いが見た目の無骨さは大好きだ。少し薄暗いけれど安くてうまい大衆居酒屋に紛れてしまうのはほんとうに気持ちがいい。だから都市は好きである。歌舞伎町も。だけど海外ブランドのスーツを着たりスポーツカーに乗ったり流行りの時計を嵌めたりするのはどうしても好きになれない、「感性は二の次」とおざなりにされている気がするし想像力があまりに他人任せだからその不自然さはすごく強調されて見える。それを提供しようとする表参道ヒなんとかとかなんとかギヒルズとかもだからなのかな、好きになれない。
どこまでも続く青い海空(つまり沖縄)や霊験あらたかな山々(つまり紀州)も気兼ねして困る。感動しなさいといわれているように感じても、僕は人間で浅知恵のついた猿だからそんなところで裸で生きるわけにはいかないとなにかが言う。裸になって生きる心算でのびのびと暮らせということは、たぶん最初の5文字で聞くのをやめてしまう。どうせならハワイぐらいだらだらしているほうがよい。夜中に銃声が聞こえるのだとしても。
生きるということを本当にわかることはないのだ、という人もある。死というのは他人の死しか経験することができず、自分の死は経験することができないのだから、死と相対的な関係にある生を確実に経験するということはできないのだと。つまり死の反対の生も生の反対の死もやってくることは無いのだと。なのに生き死にする。そうした自然の摂理に巻き込まれるのに嫌悪する一方で、全てにメスを入れようとする最先端医療よ、出来るというな、遺伝子組み換えだとかクローンだとか可能であるといってくれるな、僕に教えるんじゃないと1/10000スケールの僕がいう。その小さな僕を僕はみたことがない。射精する。受精する。生まれる。泣く。笑う。大きくなる。病気をする。手をつなぐ。また病気をする。老いる。輪廻でなく断線されたそれ、むき出しの生を僕は時折受け付けなくなる。
僕は昔、仙人になりたい(みたいな生活をしたい)なあと思ったことがある。山深い場所で苔むした庵に住む。思考はなんとなくなされていればおっけーで仕事はきちんとする。でもそれは山に住みたいから山に住むのではない。ときおり山から里へと下りたいから山に住むのだ。そのぐらいのつもりしかないからきっと僕は山に住めない・・・
自然と不自然のあいだ。
自然物を触って切ってこねこねして火を操って食う。料理。または酒。手をかけて造ったもので気持ち良くなる。いい匂い。
賭け事。確率の神様と遊ぶ。せいぜい頭を使って考える。サイコロ。札。馬。牌。将棋も。盤面は宇宙。
古物。造ったものが古くなる。歴史。誰かが書いたもの。みんな知っている歴史、ほとんどの人が知らない歴史。または嘘と言える歴史。
陰翳。
運動。肉体をコントロールする。枠組みの中で最大限に自由に動く。サッカー。野球。枠がなければ自由は発揮されないのだと気づく瞬間。ゴールを知らないのに最大限に走ることは出来ない。距離によって走り方が違うからだ。だからそれが用意される。その自由のために鍛錬もなされる。
***
好きなものを想像することが難しくなったとき、嫌なものばかりが顔を出す。それが不自然と自然。だから僕はあいだを語ることが出来なければならない。語ることによってあいだは確かにあるのだと幻覚させる。決して線引きしてわけることのできない、かつ混ざり合うことのないなにか。その二つと二つのあいだがあることを想像できなければ、僕は面倒くさくなってしまうだろう。
***
僕は江戸に生まれたかったなと思うことがちょっとある。江戸前でたくさん魚がとれて新鮮でうまいのではないかと思うからなのだが、それには少し面倒なイメージが纏わり付く。それは例えば単に、おいしいものを食べたいからとか環境破壊を恨んでいるから、ということではない。そうではなくて、今現在の東京湾でとれる魚がおいしくないこと、たった今とれたてのはずの魚が水質の問題などで臭くて食べ辛いということが、あまりに不自然な現象として嘔吐的な気持ち悪さを呼びこんでしまうからだ。つまり自然があまりに自然の体をなしていないことが気持ち悪いのである。
しかし一方で姿かたちのそのままの自然を好きだと思うことは無い。密林や深海といった強く美しい自然をそのまま受け入れることはできない。荒々しさと脆さが美しく見えて神を想像させるときほど、一方で拒否感が増していく。それらとずっと触れ合っていたいとはどうしても思えない。知っているだけでいい、広大な自然というのは大体こんな風にあるのかなと未熟な想像力を働かせることさえできればいい。身近なところでいえば人体や、土地と血縁に「根付く」といったことにも拒否感は強く表れる。
いつしか悩みごとの全てはこの二つに還元される。僕はいったいなにを、どこでしたいのか。生命としての自分をどう扱えばいいのか。他人との会話、社会での生きかた、自己満足と自己犠牲、自分が持つ悩みの全てはいつしか「自然」と「不自然」の二つから力を与えられて、拮抗する。いやなことがあったら、それを「自然」的部分と「不自然」的部分にわけて考えてしまい、そのどちらにも抗えないでしまう。僕は生きてなにと戯れたいのかわからなくなってしまう。
近代的なビルや都市は嫌いではない。東京は好きである。整理されて立派なビルが立ち並ぶぶん、煩雑さと汚さを兼ね備えた影や路地裏が生まれてもいる。都庁の無骨さとといったらない。高いところが嫌いだからよほどの用事でもない限りのぼるつもりも無いが見た目の無骨さは大好きだ。少し薄暗いけれど安くてうまい大衆居酒屋に紛れてしまうのはほんとうに気持ちがいい。だから都市は好きである。歌舞伎町も。だけど海外ブランドのスーツを着たりスポーツカーに乗ったり流行りの時計を嵌めたりするのはどうしても好きになれない、「感性は二の次」とおざなりにされている気がするし想像力があまりに他人任せだからその不自然さはすごく強調されて見える。それを提供しようとする表参道ヒなんとかとかなんとかギヒルズとかもだからなのかな、好きになれない。
どこまでも続く青い海空(つまり沖縄)や霊験あらたかな山々(つまり紀州)も気兼ねして困る。感動しなさいといわれているように感じても、僕は人間で浅知恵のついた猿だからそんなところで裸で生きるわけにはいかないとなにかが言う。裸になって生きる心算でのびのびと暮らせということは、たぶん最初の5文字で聞くのをやめてしまう。どうせならハワイぐらいだらだらしているほうがよい。夜中に銃声が聞こえるのだとしても。
生きるということを本当にわかることはないのだ、という人もある。死というのは他人の死しか経験することができず、自分の死は経験することができないのだから、死と相対的な関係にある生を確実に経験するということはできないのだと。つまり死の反対の生も生の反対の死もやってくることは無いのだと。なのに生き死にする。そうした自然の摂理に巻き込まれるのに嫌悪する一方で、全てにメスを入れようとする最先端医療よ、出来るというな、遺伝子組み換えだとかクローンだとか可能であるといってくれるな、僕に教えるんじゃないと1/10000スケールの僕がいう。その小さな僕を僕はみたことがない。射精する。受精する。生まれる。泣く。笑う。大きくなる。病気をする。手をつなぐ。また病気をする。老いる。輪廻でなく断線されたそれ、むき出しの生を僕は時折受け付けなくなる。
僕は昔、仙人になりたい(みたいな生活をしたい)なあと思ったことがある。山深い場所で苔むした庵に住む。思考はなんとなくなされていればおっけーで仕事はきちんとする。でもそれは山に住みたいから山に住むのではない。ときおり山から里へと下りたいから山に住むのだ。そのぐらいのつもりしかないからきっと僕は山に住めない・・・
自然と不自然のあいだ。
自然物を触って切ってこねこねして火を操って食う。料理。または酒。手をかけて造ったもので気持ち良くなる。いい匂い。
賭け事。確率の神様と遊ぶ。せいぜい頭を使って考える。サイコロ。札。馬。牌。将棋も。盤面は宇宙。
古物。造ったものが古くなる。歴史。誰かが書いたもの。みんな知っている歴史、ほとんどの人が知らない歴史。または嘘と言える歴史。
陰翳。
運動。肉体をコントロールする。枠組みの中で最大限に自由に動く。サッカー。野球。枠がなければ自由は発揮されないのだと気づく瞬間。ゴールを知らないのに最大限に走ることは出来ない。距離によって走り方が違うからだ。だからそれが用意される。その自由のために鍛錬もなされる。
***
好きなものを想像することが難しくなったとき、嫌なものばかりが顔を出す。それが不自然と自然。だから僕はあいだを語ることが出来なければならない。語ることによってあいだは確かにあるのだと幻覚させる。決して線引きしてわけることのできない、かつ混ざり合うことのないなにか。その二つと二つのあいだがあることを想像できなければ、僕は面倒くさくなってしまうだろう。
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知っているひとはごく僅かだとおもうけれど、実はぼくは2年とちょっと前から格闘ゲームをやっている。ストリートファイター4というのが面白くて、ゲーセンでやるゲームなんてほとんど初めてのところからスタートしてもうすぐ2年と半年ぐらいだろうか。
僕はバルログというキャラを使っていて闘っているけど、このキャラはそこそこ癖のあるヤツで、必殺技とかそんな難しくないんだけど立ち回りでなんとか相手を追い払っていかないといけない、というキャラ。バルログばかりを使い続けておよそ1000日、ずいぶんと動かせるようになったなと思うけど、僕は大変に不器用でして、まだまだ操作ミスとかあってひどいんです。真上にジャンプするつもりが、前のほうに飛んでしまって、待ち構えていた敵に「しょーりゅーけん」とやられるのは、もう見飽きるぐらい。そもそも、ゲーセンのあのスティックで動かすやつって、左手で操らなければいけないわりには繊細で、かなりゲーム慣れしていないと操作が難しいんじゃないかと思うんだけど・・・(その分、使いこなせば家庭用ゲーム機のコントローラーより早く正確にコマンド入力できるという利点ももちろんある)
しかしそんなことを愚痴っていては仕方がない。前よりずいぶんと出来るようになった今の僕ではあるけれど、操作ミスが(他の人と比べても)圧倒的に多いのは明白で、これまで「操作が簡単なキャラ」という利点を生かしてごまかしてきた部分を修正しないと、これから未来がないということを(実は少なくとも1年前からであるが)気づいた。
そこで今回、重たい腰を上げて、不器用さにメスを入れるべくついに僕は立ち上がった!
方法はいたって簡単。ストリートファイター4においてもっともオーソドックスなコンボ(必殺技連携)、バルログだけを使うにあたっては必要ないこの操作を的確に入力可能となることによってスティックやボタンの操作精度をあげて、結果的にバルログの簡単な操作のミスも少なくするという作戦だ。(XBOX360のソフト「スーパーストリートファイター4」の練習モードを使って練習。)
そのコンボはリュウの
昇竜拳→セービングキャンセル→滅・波動拳(通称・セビ滅)
というやつである。さらに今回はそこに少しアレンジを加えて、より効率よい練習をしようと思う。
ジャンプ大P(パンチ)→しゃがみ大P→昇竜拳(以下同上)
こういった具合である。これをは十字キーで言えばどういう入力になるかと言えば、
↗ 大P ↓大P ↘↓↘+大P 中P+中K →→ ↓↘→↓↘→+P3ッ同時押し(キャラクター1P側の場合)
これである。そしてこれを1日何本も反復練習するのだ。不器用克服だけでなく、利点はほかにもあって、こうして基本のコンボが出来るようになると、ほかのキャラクターも少しは使えるようになる。すると、そのキャラクターを使っているとき相手にやられていやなところとか、キャラの得意な部分とかが見えてくるのである。これは、対戦相手の対策としてすごく有効なのだ。
上記の一連のコンボを1000本やっても、1時間程度で済むだろう。まさに、1000本ノック!空いた時間にそれをやって、成功数を毎日つぶやくことにする。ダイエットも、開始宣言をたくさんの人に言うことと、目方をきっちりメモっていく(または公表する)のがコツだとも聞くしね!それで、どんどん成功率を上げていこうという作戦
。もしかしたら、詰め将棋も「これは解けませんでした」とかいちいちやるとうまくなったりして・・・
というわけで試しにやってみた、今日の分。
1P側:16/200 成功率8%
2P側:79/200 成功率39.5%
うーん、自分にかける言葉が見当たらない・・・ひどい・・・いや、こんな体たらくだからこそ、練習する価値がある!不器用を少しでも克服したときに発揮されるバルログの真価が、実に楽しみである。
少々分析すれば、1P側は滅・波動拳がEX昇竜拳に化ける。2Pは真空波動拳の暴発を意識しすぎてしゃがみ大P→昇竜拳と繋がらない。なるほど、自分の苦手な動かし方がわかってくるものである。キーディスプレイという機能があって、自分がどう入力したが見れるので、大変参考になる。うん、これをサボらず続けていけば、少しは、まともに格闘ゲームをやれるようになるんじゃないだろうか。次回から、つぶやいていこうと思います。
付記:このように書くと、1000本ノックして練習するコンボが「基本」だなんて格闘ゲームって敷居が高すぎる、なんて思いがちですが、それは僕があまりに不器用なだけで、ちょっと器用な人ならばすぐに安定して出せるようになると思います。
付記2:2年半もやってるならもっと早くに練習すればよかったんじゃ?・・・まったくもってその通り。練習嫌いはうまくなれない・・・
付記3:左手の不器用さがあまりに酷いので、実はずっと左手で歯を磨いたりご飯を食べたりしている。なんとか出来るようになってきたけど、果たしてゲームにどれほど良い効果があったかは、知りようがない。残念。
僕はバルログというキャラを使っていて闘っているけど、このキャラはそこそこ癖のあるヤツで、必殺技とかそんな難しくないんだけど立ち回りでなんとか相手を追い払っていかないといけない、というキャラ。バルログばかりを使い続けておよそ1000日、ずいぶんと動かせるようになったなと思うけど、僕は大変に不器用でして、まだまだ操作ミスとかあってひどいんです。真上にジャンプするつもりが、前のほうに飛んでしまって、待ち構えていた敵に「しょーりゅーけん」とやられるのは、もう見飽きるぐらい。そもそも、ゲーセンのあのスティックで動かすやつって、左手で操らなければいけないわりには繊細で、かなりゲーム慣れしていないと操作が難しいんじゃないかと思うんだけど・・・(その分、使いこなせば家庭用ゲーム機のコントローラーより早く正確にコマンド入力できるという利点ももちろんある)
しかしそんなことを愚痴っていては仕方がない。前よりずいぶんと出来るようになった今の僕ではあるけれど、操作ミスが(他の人と比べても)圧倒的に多いのは明白で、これまで「操作が簡単なキャラ」という利点を生かしてごまかしてきた部分を修正しないと、これから未来がないということを(実は少なくとも1年前からであるが)気づいた。
そこで今回、重たい腰を上げて、不器用さにメスを入れるべくついに僕は立ち上がった!
方法はいたって簡単。ストリートファイター4においてもっともオーソドックスなコンボ(必殺技連携)、バルログだけを使うにあたっては必要ないこの操作を的確に入力可能となることによってスティックやボタンの操作精度をあげて、結果的にバルログの簡単な操作のミスも少なくするという作戦だ。(XBOX360のソフト「スーパーストリートファイター4」の練習モードを使って練習。)
そのコンボはリュウの
昇竜拳→セービングキャンセル→滅・波動拳(通称・セビ滅)
というやつである。さらに今回はそこに少しアレンジを加えて、より効率よい練習をしようと思う。
ジャンプ大P(パンチ)→しゃがみ大P→昇竜拳(以下同上)
こういった具合である。これをは十字キーで言えばどういう入力になるかと言えば、
↗ 大P ↓大P ↘↓↘+大P 中P+中K →→ ↓↘→↓↘→+P3ッ同時押し(キャラクター1P側の場合)
これである。そしてこれを1日何本も反復練習するのだ。不器用克服だけでなく、利点はほかにもあって、こうして基本のコンボが出来るようになると、ほかのキャラクターも少しは使えるようになる。すると、そのキャラクターを使っているとき相手にやられていやなところとか、キャラの得意な部分とかが見えてくるのである。これは、対戦相手の対策としてすごく有効なのだ。
上記の一連のコンボを1000本やっても、1時間程度で済むだろう。まさに、1000本ノック!空いた時間にそれをやって、成功数を毎日つぶやくことにする。ダイエットも、開始宣言をたくさんの人に言うことと、目方をきっちりメモっていく(または公表する)のがコツだとも聞くしね!それで、どんどん成功率を上げていこうという作戦
。もしかしたら、詰め将棋も「これは解けませんでした」とかいちいちやるとうまくなったりして・・・
というわけで試しにやってみた、今日の分。
1P側:16/200 成功率8%
2P側:79/200 成功率39.5%
うーん、自分にかける言葉が見当たらない・・・ひどい・・・いや、こんな体たらくだからこそ、練習する価値がある!不器用を少しでも克服したときに発揮されるバルログの真価が、実に楽しみである。
少々分析すれば、1P側は滅・波動拳がEX昇竜拳に化ける。2Pは真空波動拳の暴発を意識しすぎてしゃがみ大P→昇竜拳と繋がらない。なるほど、自分の苦手な動かし方がわかってくるものである。キーディスプレイという機能があって、自分がどう入力したが見れるので、大変参考になる。うん、これをサボらず続けていけば、少しは、まともに格闘ゲームをやれるようになるんじゃないだろうか。次回から、つぶやいていこうと思います。
付記:このように書くと、1000本ノックして練習するコンボが「基本」だなんて格闘ゲームって敷居が高すぎる、なんて思いがちですが、それは僕があまりに不器用なだけで、ちょっと器用な人ならばすぐに安定して出せるようになると思います。
付記2:2年半もやってるならもっと早くに練習すればよかったんじゃ?・・・まったくもってその通り。練習嫌いはうまくなれない・・・
付記3:左手の不器用さがあまりに酷いので、実はずっと左手で歯を磨いたりご飯を食べたりしている。なんとか出来るようになってきたけど、果たしてゲームにどれほど良い効果があったかは、知りようがない。残念。
先日ふらりと思い立って新世界を歩いてきた。通天閣の周囲は観光地化しているけれど、まだまだ混沌とした雰囲気が残っている。西成~天下茶屋のほうまで足を伸ばせば、あたりに漂う空気はどんどんと濃くなっていくだろう。日本にこういう場所があって、今に至るまでたくさん消えて、東京あたりではよほど選んで行かなければ触れ合うことも無い、そうした混沌の姿を、ほんの少しだけ肌身に感じられる。大阪はこんなものを抱えているのかという気分も、もちろんする。1500円の安宿。放浪する人。混沌は窒息しそうになりながら、ぎりぎり息づいている。テレビやコンビニからは、混沌を掻き消すような整然とした情報が街に垂れ流されていく。
日本人は、というととても語弊があるのだけど、ぼくらは、日本をあまり歩いたりはしないのかもしれない。余暇を海外で過ごす人は多い。日本人の平均労働時間は欧米先進諸国のそれと比べてずいぶん多く、「日本人は働きすぎ」説は神話ではない。それを国民性とだけ言うのは僕は好まないけど、働くために都市部に、東京に人が流れ込み、すごくたくさん働いて、明日から働くために休み、家族がなんとかそれを下支えするというのは嘘ではないだろう。たくさん働くために、東京にたくさんの人が集まる。余暇が少ないから各地をのんびりと旅をすることは難しく、大型連休はずいぶん長い間、車に乗る。でなきゃ海外。
そうして生まれる疲弊を、憂慮したいのでも皮肉りたいのでもない。あまりに一箇所に人が集まりすぎたために地方が空洞化し、メタボリックになった東京に、閃光のように走った衝撃、地震。大阪の混沌を歩くと、これから考えなければいけない計画停電や、経済の復興を、東京とそれ以外の土地とのパワーバランスのことが、頭をよぎる。原発の話を聞くと、日本では、たくさん働くためにインフラを整備して原発を作ったのが、働いて成長してきた経済を今度はその原発が壊しかねないという、そんな状況なのかと考えてしまう。
福島とその近辺は風評被害を恐れているという。いま恐れるべきはそんなことじゃないよなあと思ったりもする。なにより大切なのは、人体に影響がでるくらいの放射線が頒布しているなら、まず安全な場所にまでかの地の人たちが逃げられるようにするべきで、ほんとのところ、放射線、大丈夫なのかなあという気持ちがある。駄目なのなら、早く言って欲しい、いち早く当地の人たちが逃げることが出来るよう、他府県で体制を整えなければいけないと思ってしまう。風評被害よりもとにかく実害を避けることが大事なのに、どうも政府の発表を聞く限りでは、基準値が上下したりの、専門家の言うこともあまりクリアに聞こえてこなかったりの、困る、怖い。誰かが危険に晒されなければいけないかもしれない、この国で、家もコンビニもパチンコ屋も政党政治もGDPもあるこの国で誰かが放射線による被害にあわなければならないとしたら、それが僕は怖い、辛い、そう思ったりする。
一方でこうも考えられる。あまりに情報を素で出したりなんかして混乱してしまうと、収拾が付かなくなる。そうなれば経済や復興の観点から大いに支障が出るし、パニックになって様々なものが機能しにくくなればそちらのほうが嫌な結果を迎える、そう考えてもいいのかもしれない、もしくはそう考えられているのかもしれない。かもしれない。そんなことはよくわからないんだきっと。原発の詳細なんかぽんぽんメディアで発表してしまえば、テロリストや悪意ある隣人にそうした情報を悪用されかねん!とか言って、全く、その通りかもしれないし。ただちに健康被害がなくても、がんにならなくても、なんとなく70歳で体調が悪くなって、72歳で死んだ僕が、実は内部被爆していなかったら73歳まで生きれたってこともあるかもしれない。知らないよね、そんなこと。
地震が起きてからこのかた、個人的にたった一つだけ民主党に大変に感謝していることがある。彼らの統率力があまりにもお粗末なために、国民が「総動員になって」とか「今こそみんなで力を合わせて」とか機能しなくって、ナショナリズム、いつかきな臭くなる「かもしれない」あのナショナリズムがだんぜん強さを見せていないような気がする。米国みたいに個人主義の行き届いた国じゃないから、一度連帯や愛国が力を持てば根強く残るかもしれない、とか思うけど、今回はそうじゃないっぽい。僕がすごく苦手にしているものであるのでそれが発生しないならば嬉しい。かもしれないっぽいがたくさん。
放射線被爆は明確でそこそこの程度の被爆者が出ない限り報道されたり放射線が危険だと断定されたりしないんだろうか。もしくはそうした人が仮にいたとしても多くの人が知ることのないように工夫されているんだろうか。それは困る。ある教授が言っていた。「原子力のような強力巨大な科学は、そもそも絶対安全と言えるレベルじゃないと使用したらいけない。絶対安全、というのはむしろ最低限必要なこと、あたりまえのこと。そのように裏打ちされたものを、それでも万一に備えてさらに万全の準備を施すのが、原子力のようなものを使用するときに必要とされるものだ。しかし、彼らは「絶対安全」と人々に説いていくうち、自ら自己催眠のように本当に「絶対安全」だと思っちゃった。だから、予備電源だか復旧システムだか、津波が来たらすぐ流されるのがわかっているような場所に据付けられていたりなんかして、非常に備えたシステムがまるで機能しないような事態が起こるのだ、と。そしてもちろん、「絶対安全」だと思うのは、「絶対勝てる」と思っていたあの戦争と相似する、国民を鼓舞するために絶対勝てるといい続けていた人たちが、本当に勝てると思い込んだあのときと、イメージが重なりもする」のだと。(うろ覚えだし、僕の言葉で書いているので、文責はその教授にはありません、念のため)
なるほどと思う。驚くことである。それでは、原発安全神話という虚像が壊れた今は、敗戦後と重ねられるのだろうか。僕は敗戦で構わない、勝利が必要だと思わないから。敗戦だったら敗戦だったで、あれから復興したように、またみんな元気でやり直して、しかも地震以前よりうまいことやればいい。余暇があって地方が元気で地方の温泉地が栄えて僕の生まれ育った伊勢志摩にもたくさん人がくればいい。東北は日本で一番暮らしやすい場所になって欲しい。
今は色んなところで色んな人が喋っていて、情報は錯綜して、本当のこと、真実というがなにか分からない・ありもしないという中で言葉を使って、発信して混乱するし迷惑だし、マスコミも同じようなニュースばっかやって一つにまとめたらちょっとは資源が儲かるんじゃないのとか、考えられないわけじゃないけども、まあいいんじゃないのと思う。みんな物わかりがよくって専門家以外黙ってて、マスコミが洗練された動きと報道しかしなかったら、気持ち悪いかなあという気がするから。そうなったらきっとへんなイデオロギーを感じずには、テレビを見たりtwitter見たり出来ないだろうから。利権まみれのACってのもまあ、気分は良くないんだけども。
自粛自粛というのはなんか気持ち悪くて、むしろ企業のほうが活動を自粛したら節電も出来て、とかもあるけど、そうするとパワーゲームという側面が前面化して中小企業から順番に潰れていかもしれず、そうなってはまた困るからそれもどうなんだと思う。
それから、高校野球を見ていて、応援しているチアの女の子が涙をたたえたような目で、祈るようにしているのをみると、どうしても被災地への祈りがそこにあるのではないかと一瞬頭をよぎってしまう、別にそれがどうしたというわけでもないんだけど。
僕なんか家族も全く被災していないし、テレビ見てネット見て知ってる人と知らない人の心配してるばっかりで、募金もいくらだったか忘れるくらいしかしていないけど、要するに僕も結構ストレス溜まって疲れているなあ、ということらしい。日を追って地震について考えたくなくなってくるから余計考えてしまう上に、ひと考えふた疲れという風にダメージがでかくなっていってんの。こうして長文書かずにはいられないわけだし。んもう、ゲームでもしに行くっか。
日本人は、というととても語弊があるのだけど、ぼくらは、日本をあまり歩いたりはしないのかもしれない。余暇を海外で過ごす人は多い。日本人の平均労働時間は欧米先進諸国のそれと比べてずいぶん多く、「日本人は働きすぎ」説は神話ではない。それを国民性とだけ言うのは僕は好まないけど、働くために都市部に、東京に人が流れ込み、すごくたくさん働いて、明日から働くために休み、家族がなんとかそれを下支えするというのは嘘ではないだろう。たくさん働くために、東京にたくさんの人が集まる。余暇が少ないから各地をのんびりと旅をすることは難しく、大型連休はずいぶん長い間、車に乗る。でなきゃ海外。
そうして生まれる疲弊を、憂慮したいのでも皮肉りたいのでもない。あまりに一箇所に人が集まりすぎたために地方が空洞化し、メタボリックになった東京に、閃光のように走った衝撃、地震。大阪の混沌を歩くと、これから考えなければいけない計画停電や、経済の復興を、東京とそれ以外の土地とのパワーバランスのことが、頭をよぎる。原発の話を聞くと、日本では、たくさん働くためにインフラを整備して原発を作ったのが、働いて成長してきた経済を今度はその原発が壊しかねないという、そんな状況なのかと考えてしまう。
福島とその近辺は風評被害を恐れているという。いま恐れるべきはそんなことじゃないよなあと思ったりもする。なにより大切なのは、人体に影響がでるくらいの放射線が頒布しているなら、まず安全な場所にまでかの地の人たちが逃げられるようにするべきで、ほんとのところ、放射線、大丈夫なのかなあという気持ちがある。駄目なのなら、早く言って欲しい、いち早く当地の人たちが逃げることが出来るよう、他府県で体制を整えなければいけないと思ってしまう。風評被害よりもとにかく実害を避けることが大事なのに、どうも政府の発表を聞く限りでは、基準値が上下したりの、専門家の言うこともあまりクリアに聞こえてこなかったりの、困る、怖い。誰かが危険に晒されなければいけないかもしれない、この国で、家もコンビニもパチンコ屋も政党政治もGDPもあるこの国で誰かが放射線による被害にあわなければならないとしたら、それが僕は怖い、辛い、そう思ったりする。
一方でこうも考えられる。あまりに情報を素で出したりなんかして混乱してしまうと、収拾が付かなくなる。そうなれば経済や復興の観点から大いに支障が出るし、パニックになって様々なものが機能しにくくなればそちらのほうが嫌な結果を迎える、そう考えてもいいのかもしれない、もしくはそう考えられているのかもしれない。かもしれない。そんなことはよくわからないんだきっと。原発の詳細なんかぽんぽんメディアで発表してしまえば、テロリストや悪意ある隣人にそうした情報を悪用されかねん!とか言って、全く、その通りかもしれないし。ただちに健康被害がなくても、がんにならなくても、なんとなく70歳で体調が悪くなって、72歳で死んだ僕が、実は内部被爆していなかったら73歳まで生きれたってこともあるかもしれない。知らないよね、そんなこと。
地震が起きてからこのかた、個人的にたった一つだけ民主党に大変に感謝していることがある。彼らの統率力があまりにもお粗末なために、国民が「総動員になって」とか「今こそみんなで力を合わせて」とか機能しなくって、ナショナリズム、いつかきな臭くなる「かもしれない」あのナショナリズムがだんぜん強さを見せていないような気がする。米国みたいに個人主義の行き届いた国じゃないから、一度連帯や愛国が力を持てば根強く残るかもしれない、とか思うけど、今回はそうじゃないっぽい。僕がすごく苦手にしているものであるのでそれが発生しないならば嬉しい。かもしれないっぽいがたくさん。
放射線被爆は明確でそこそこの程度の被爆者が出ない限り報道されたり放射線が危険だと断定されたりしないんだろうか。もしくはそうした人が仮にいたとしても多くの人が知ることのないように工夫されているんだろうか。それは困る。ある教授が言っていた。「原子力のような強力巨大な科学は、そもそも絶対安全と言えるレベルじゃないと使用したらいけない。絶対安全、というのはむしろ最低限必要なこと、あたりまえのこと。そのように裏打ちされたものを、それでも万一に備えてさらに万全の準備を施すのが、原子力のようなものを使用するときに必要とされるものだ。しかし、彼らは「絶対安全」と人々に説いていくうち、自ら自己催眠のように本当に「絶対安全」だと思っちゃった。だから、予備電源だか復旧システムだか、津波が来たらすぐ流されるのがわかっているような場所に据付けられていたりなんかして、非常に備えたシステムがまるで機能しないような事態が起こるのだ、と。そしてもちろん、「絶対安全」だと思うのは、「絶対勝てる」と思っていたあの戦争と相似する、国民を鼓舞するために絶対勝てるといい続けていた人たちが、本当に勝てると思い込んだあのときと、イメージが重なりもする」のだと。(うろ覚えだし、僕の言葉で書いているので、文責はその教授にはありません、念のため)
なるほどと思う。驚くことである。それでは、原発安全神話という虚像が壊れた今は、敗戦後と重ねられるのだろうか。僕は敗戦で構わない、勝利が必要だと思わないから。敗戦だったら敗戦だったで、あれから復興したように、またみんな元気でやり直して、しかも地震以前よりうまいことやればいい。余暇があって地方が元気で地方の温泉地が栄えて僕の生まれ育った伊勢志摩にもたくさん人がくればいい。東北は日本で一番暮らしやすい場所になって欲しい。
今は色んなところで色んな人が喋っていて、情報は錯綜して、本当のこと、真実というがなにか分からない・ありもしないという中で言葉を使って、発信して混乱するし迷惑だし、マスコミも同じようなニュースばっかやって一つにまとめたらちょっとは資源が儲かるんじゃないのとか、考えられないわけじゃないけども、まあいいんじゃないのと思う。みんな物わかりがよくって専門家以外黙ってて、マスコミが洗練された動きと報道しかしなかったら、気持ち悪いかなあという気がするから。そうなったらきっとへんなイデオロギーを感じずには、テレビを見たりtwitter見たり出来ないだろうから。利権まみれのACってのもまあ、気分は良くないんだけども。
自粛自粛というのはなんか気持ち悪くて、むしろ企業のほうが活動を自粛したら節電も出来て、とかもあるけど、そうするとパワーゲームという側面が前面化して中小企業から順番に潰れていかもしれず、そうなってはまた困るからそれもどうなんだと思う。
それから、高校野球を見ていて、応援しているチアの女の子が涙をたたえたような目で、祈るようにしているのをみると、どうしても被災地への祈りがそこにあるのではないかと一瞬頭をよぎってしまう、別にそれがどうしたというわけでもないんだけど。
僕なんか家族も全く被災していないし、テレビ見てネット見て知ってる人と知らない人の心配してるばっかりで、募金もいくらだったか忘れるくらいしかしていないけど、要するに僕も結構ストレス溜まって疲れているなあ、ということらしい。日を追って地震について考えたくなくなってくるから余計考えてしまう上に、ひと考えふた疲れという風にダメージがでかくなっていってんの。こうして長文書かずにはいられないわけだし。んもう、ゲームでもしに行くっか。
少々メモ的に、行きたい店や歩きたい場所などを記しておこうかと思う。生活萌え、生活は萌え要素。
・天満「大安」
大阪は天満、「大衆居酒屋の聖地」と呼ばれる場所で、昼からいくつもの店先で、顔を赤らめたおっちゃんの話し声をきくことができる場所である。東京と大阪を比べれば、後者のほうがより簡単に格安(でうまい)飲み屋を見つけられる印象があるが、大衆居酒屋密集地帯という括りであれば、まず天満が名乗りを上げる(らしい。わたくし、まだまだ大阪を歩き足りない。ゆっくりと日をかけて彷徨したい)。「天満酒蔵」という有名なお店があるが、料理も飲み物もとかく安くて、なんでもそこそこ美味しくいただける。生ものだって新鮮で、圧倒的なコストパフォーマンスを誇る。ビール大ビン350円など、1000円あれば酔える類の店である。
立ち飲みや大衆居酒屋の雰囲気を知らない人は、こんな感じを参考にしてもらえばよいだろうか。
そんな天満という地にある「大安」は、似たような大衆立ち飲み屋でありながら、生の「ギネス」が出るという。それを聞いて、一瞬くらくらと眩暈がした。私の大好きなもの、それも3000年時が経っても邂逅しそうにない大衆居酒屋とギネスの2つが、すでに融合してかの地にあるのだという。いかねばなるまい!固く拳を握った、夜である。
・バーニャカウダ
チーズフォンデュのように野菜などをアツアツのソースにつけて食べるらしいこの「バーニャカウダ」という料理だが、そのソースというのが、オリーブオイル+すりにんにく+アンチョビetc・・・という、魅惑のイタリアン。うまくないはずがない。もとい、にんにく大好き!ぜひ近いうちに、試してみたい一品である。
・伊賀市「金谷」
私の生まれ故郷・三重は松阪牛が名産として名高く、なかでも名声あり歴史ありとというのがたびたびメディアでも紹介されている「和田金」という肉料理屋である。しかしなかなか「いい」値段のする店であり、三重県民にとって「高級なものを食べる」という代名詞にもなりがちである。もちろん、味も最高、とのことだ。
そんな和田金を尻目に、あるときふと小耳に挟んだのが、伊賀市にある「金谷」というこちらも高級系の肉料理屋である。しかし、件の「和田金」よりかはいくらかリーズナブルで、味は勝るとも劣らないとも。人生一度は「大変いい肉」というのを食べておきたいもので、それほど肉好きではない私もこうした店の味比べは一度やってみたいものだ。美味い不味いより、もはや体験として、だなあ。
・日本橋「牛正」
日本橋駅の何番出口だかを地上にあがってすぐのところにある雑居ビル、その入り口部分に大変に興をそそる文句の書かれた看板がある。「珍味 生肉料理」とあり、その横に平仮名で「いのしし しか くま きじ」としてある。むぅ。どうやらきじやら熊などを刺身や鍋でいただく料理店らしい。鼻から湯気がでるほど興奮して、見つけたその日に熊の肝でも食わんという意気込みであったが、我慢して帰宅のちggってみると、なかなか気合を入れなければいけないレベルのお値段である。しかしこれは、いつか大事を成し遂げたときに行くお店として、大事に気持ちにしまってあるのである。
・本町「瓦町ブラン」
いつも立ち飲みとか大衆居酒屋に目をくばり足をむけて生きていると、ちょっと西洋風のお店というのには縁が遠くなってしまって大変よくないのであるけど、たまにはイタリア料理でも食べたいねえ、と思って調べてみる。なにせ「ギネス」が好きなものだから、磯くさい刺身や親父くさい焼き物(決して、否定しているのではありません!)ばかり追い求めるのでは、好きなものは形式的には「半分」しか満たされていないことになる。そこで見つけたのが「瓦町ブラン」というお店。「河原町」や「電気ブラン」を想像させずにはいないこの名のお店、webサイトで見ると、リーズナブルなことはもちろん嬉しいが、「大衆」伊太利亜料理店という体がいい。かしこまった食事スタイルや繊細な味というものに日ごろ縁遠く、単にそれらを毛嫌いしているわけではないが、にんにくをどっさり使ったり「ガツガツっ」とした肉料理などがどうしても馴染んでしまう。海外の食事なのに「大衆」というのが肝心要の、強い魅力である。
今回はここまで。
・天満「大安」
大阪は天満、「大衆居酒屋の聖地」と呼ばれる場所で、昼からいくつもの店先で、顔を赤らめたおっちゃんの話し声をきくことができる場所である。東京と大阪を比べれば、後者のほうがより簡単に格安(でうまい)飲み屋を見つけられる印象があるが、大衆居酒屋密集地帯という括りであれば、まず天満が名乗りを上げる(らしい。わたくし、まだまだ大阪を歩き足りない。ゆっくりと日をかけて彷徨したい)。「天満酒蔵」という有名なお店があるが、料理も飲み物もとかく安くて、なんでもそこそこ美味しくいただける。生ものだって新鮮で、圧倒的なコストパフォーマンスを誇る。ビール大ビン350円など、1000円あれば酔える類の店である。
立ち飲みや大衆居酒屋の雰囲気を知らない人は、こんな感じを参考にしてもらえばよいだろうか。
そんな天満という地にある「大安」は、似たような大衆立ち飲み屋でありながら、生の「ギネス」が出るという。それを聞いて、一瞬くらくらと眩暈がした。私の大好きなもの、それも3000年時が経っても邂逅しそうにない大衆居酒屋とギネスの2つが、すでに融合してかの地にあるのだという。いかねばなるまい!固く拳を握った、夜である。
・バーニャカウダ
チーズフォンデュのように野菜などをアツアツのソースにつけて食べるらしいこの「バーニャカウダ」という料理だが、そのソースというのが、オリーブオイル+すりにんにく+アンチョビetc・・・という、魅惑のイタリアン。うまくないはずがない。もとい、にんにく大好き!ぜひ近いうちに、試してみたい一品である。
・伊賀市「金谷」
私の生まれ故郷・三重は松阪牛が名産として名高く、なかでも名声あり歴史ありとというのがたびたびメディアでも紹介されている「和田金」という肉料理屋である。しかしなかなか「いい」値段のする店であり、三重県民にとって「高級なものを食べる」という代名詞にもなりがちである。もちろん、味も最高、とのことだ。
そんな和田金を尻目に、あるときふと小耳に挟んだのが、伊賀市にある「金谷」というこちらも高級系の肉料理屋である。しかし、件の「和田金」よりかはいくらかリーズナブルで、味は勝るとも劣らないとも。人生一度は「大変いい肉」というのを食べておきたいもので、それほど肉好きではない私もこうした店の味比べは一度やってみたいものだ。美味い不味いより、もはや体験として、だなあ。
・日本橋「牛正」
日本橋駅の何番出口だかを地上にあがってすぐのところにある雑居ビル、その入り口部分に大変に興をそそる文句の書かれた看板がある。「珍味 生肉料理」とあり、その横に平仮名で「いのしし しか くま きじ」としてある。むぅ。どうやらきじやら熊などを刺身や鍋でいただく料理店らしい。鼻から湯気がでるほど興奮して、見つけたその日に熊の肝でも食わんという意気込みであったが、我慢して帰宅のちggってみると、なかなか気合を入れなければいけないレベルのお値段である。しかしこれは、いつか大事を成し遂げたときに行くお店として、大事に気持ちにしまってあるのである。
・本町「瓦町ブラン」
いつも立ち飲みとか大衆居酒屋に目をくばり足をむけて生きていると、ちょっと西洋風のお店というのには縁が遠くなってしまって大変よくないのであるけど、たまにはイタリア料理でも食べたいねえ、と思って調べてみる。なにせ「ギネス」が好きなものだから、磯くさい刺身や親父くさい焼き物(決して、否定しているのではありません!)ばかり追い求めるのでは、好きなものは形式的には「半分」しか満たされていないことになる。そこで見つけたのが「瓦町ブラン」というお店。「河原町」や「電気ブラン」を想像させずにはいないこの名のお店、webサイトで見ると、リーズナブルなことはもちろん嬉しいが、「大衆」伊太利亜料理店という体がいい。かしこまった食事スタイルや繊細な味というものに日ごろ縁遠く、単にそれらを毛嫌いしているわけではないが、にんにくをどっさり使ったり「ガツガツっ」とした肉料理などがどうしても馴染んでしまう。海外の食事なのに「大衆」というのが肝心要の、強い魅力である。
今回はここまで。
まず、亡くなられた方へのご冥福をお祈りいたしますとともに、被災地の一日でも早い復興と、できるだけ多くの方のご無事を願っております。
あまりにも巨大な出来事が一瞬のうちに発生したわけで、恐怖感とともに、自然や生きることや暮らすことへのなんとも言えない感情が自分の中で渦巻いています。瞬く間に剥奪されること、そこにあったはずの数多くの日常が次の瞬間にまるで予測もしていないものに変わること、またはこの世ではないところに(一度に大勢の人が)連れて行かれることなど、自分の(もしくは人の)想像力の拙さは常々意識はしていますが、あまりに驚いてしまうことで、悲しみや怖さが背中から剥がれない。
僕はなんのかんので日本が好き、というのではないけれど、風景や場所や路地などが好きで、田舎にぽつねんと立つ一軒屋の囲炉裏で、土瓶で酒を温めて飲むという情景なんかが好きで、例えばそうしたものが一瞬で流れてしまうということの発生、それがすごく怖く悲しく感じてしまうというのがあります。それはアイルランドのパブでも台湾の屋台でもいい。土地と生活、そういったものを見る味わうことが好きで、その破綻はとても怖いです。好き嫌いの問題で言えば、逆に血やイデオロギーと言ったものは好きではなく、よって地=血という感覚も馴染まず、粋や誇りは自分に注射して他人を煽るものでなければいい、と感じていたりもします。ぶっちゃけて言えば家族という機構が好きではなく、極端な感じ方をしているのかもしれません。中上健次が苦手なのも、だからだと思います。子どもや赤さんは存在がとても好きです。
大地震に接したことにより日々いろいろなことが頭を巡りますが(阪神淡路のときはそうなるにはあまりに幼すぎた)、あるときある場所で正しい情報が時と場所を変えれば誤解を生むものになったり、遠く離れた人のことを心配することの難しさや、信じることや行動することの(への)障害というものを目の当たりにして、勉強になったり混乱しています。
原発の被害も少なくてすめばいいなあ。
気が早いですが、夏あたりに可能な状態になっていれば東北へ旅行しようかなと考えたりもします。それから、東北地方に関連する企業の株を、お金がないのでほんの少しですが、買おうかとも考えています。たくさんの金額を寄付することは難しいですが、株を買うという形が僕にとってはいくらか壁の低い震災援助への参加の仕方でもあります。
それから、少し防災用品も購入し用意し始めています。懐中電灯や電池など、少しだけ買っています。それは、もし近くまた大きな地震がこちらであったとき、自分の身を守ることができれば、わずかでも救助の必要がなくなり全体の負担が軽減されるからです。「全体」という言葉は好きではありません。物資の正常な需給の妨げにならないよう、手っ取り早く言えば無駄な買い占め行為に加担せぬよう、備蓄もしておかなければと思っています。実家から米を送ってもらいました。(←他力本願)
実家は海辺の小さな町・・・村にあり、津波が来れば今回ほど大規模なものでなくとも全壊の恐れが多分にあり、つまりは家族の生命も存分に危険な状態に晒されることは簡単に予見できるので、実家のほうではいま防災について真摯に考を深めるとともに、眠入りの悪くなる日々をすごしているようで、僕も心配しています(家は東海地方某所にあり、東海地方に大きな地震があれば間違いなく被災してしまいます)。
ブログや日記の類を書くというのも重労働に感じられる一週間が過ぎましたが、今後も状況の変化に注視しつつ、生活というものを感じて生きたいと思います。
追記:いま過去の記事を見返したら9日に地震に関連する話を記している。符号が一致する、ぶるりとする気持ち悪さ。
あまりにも巨大な出来事が一瞬のうちに発生したわけで、恐怖感とともに、自然や生きることや暮らすことへのなんとも言えない感情が自分の中で渦巻いています。瞬く間に剥奪されること、そこにあったはずの数多くの日常が次の瞬間にまるで予測もしていないものに変わること、またはこの世ではないところに(一度に大勢の人が)連れて行かれることなど、自分の(もしくは人の)想像力の拙さは常々意識はしていますが、あまりに驚いてしまうことで、悲しみや怖さが背中から剥がれない。
僕はなんのかんので日本が好き、というのではないけれど、風景や場所や路地などが好きで、田舎にぽつねんと立つ一軒屋の囲炉裏で、土瓶で酒を温めて飲むという情景なんかが好きで、例えばそうしたものが一瞬で流れてしまうということの発生、それがすごく怖く悲しく感じてしまうというのがあります。それはアイルランドのパブでも台湾の屋台でもいい。土地と生活、そういったものを見る味わうことが好きで、その破綻はとても怖いです。好き嫌いの問題で言えば、逆に血やイデオロギーと言ったものは好きではなく、よって地=血という感覚も馴染まず、粋や誇りは自分に注射して他人を煽るものでなければいい、と感じていたりもします。ぶっちゃけて言えば家族という機構が好きではなく、極端な感じ方をしているのかもしれません。中上健次が苦手なのも、だからだと思います。子どもや赤さんは存在がとても好きです。
大地震に接したことにより日々いろいろなことが頭を巡りますが(阪神淡路のときはそうなるにはあまりに幼すぎた)、あるときある場所で正しい情報が時と場所を変えれば誤解を生むものになったり、遠く離れた人のことを心配することの難しさや、信じることや行動することの(への)障害というものを目の当たりにして、勉強になったり混乱しています。
原発の被害も少なくてすめばいいなあ。
気が早いですが、夏あたりに可能な状態になっていれば東北へ旅行しようかなと考えたりもします。それから、東北地方に関連する企業の株を、お金がないのでほんの少しですが、買おうかとも考えています。たくさんの金額を寄付することは難しいですが、株を買うという形が僕にとってはいくらか壁の低い震災援助への参加の仕方でもあります。
それから、少し防災用品も購入し用意し始めています。懐中電灯や電池など、少しだけ買っています。それは、もし近くまた大きな地震がこちらであったとき、自分の身を守ることができれば、わずかでも救助の必要がなくなり全体の負担が軽減されるからです。「全体」という言葉は好きではありません。物資の正常な需給の妨げにならないよう、手っ取り早く言えば無駄な買い占め行為に加担せぬよう、備蓄もしておかなければと思っています。実家から米を送ってもらいました。(←他力本願)
実家は海辺の小さな町・・・村にあり、津波が来れば今回ほど大規模なものでなくとも全壊の恐れが多分にあり、つまりは家族の生命も存分に危険な状態に晒されることは簡単に予見できるので、実家のほうではいま防災について真摯に考を深めるとともに、眠入りの悪くなる日々をすごしているようで、僕も心配しています(家は東海地方某所にあり、東海地方に大きな地震があれば間違いなく被災してしまいます)。
ブログや日記の類を書くというのも重労働に感じられる一週間が過ぎましたが、今後も状況の変化に注視しつつ、生活というものを感じて生きたいと思います。
追記:いま過去の記事を見返したら9日に地震に関連する話を記している。符号が一致する、ぶるりとする気持ち悪さ。